不確実な世界の変化を受け入れる敏感さ

もしかしたら客観性とは、いまを生きる自分がもつ同時代性を越えて、自分に時代を越えた視点を与えてくれる視点なのかもしれないな・・・。
昨日の「意味を超えたところにある何か」ではそんなことを書きました。

意味に問えば、人は必ず同時代の言説や物事、しくみに縛られざるをえなくなります。
しかし、意識的に知覚することはできない小さな声であっても身体は感知しているのであって、その声に従うなら時代を超えて古(いにしえ)の世界を知ることもできるのではないか。

白洲正子さんの『かくれ里』を読みながら、そんなことを考えます。

自然の景色は、それこそ「つはものどもの夢の跡」で、すべてを呑みこんで黙しているが、その気になって付合えば、ついには口をわってくれるものと、私は信じたいし、信じてもいる。少なくとも、昔の人たちは、そうすることによって、思想をやしない、あのようにしっかりした言葉と形を生んだのであった。
白洲正子『かくれ里』

ここでいう「あのようにしっかりした言葉」は、柿本人麻呂が軽の皇子(文武天皇)の阿騎野での狩りをうたった長歌および反歌(ひむがしの野にかげろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ)であり、「形」のほうはその「阿騎野」だった場所だと考えられている大宇陀にある大蔵寺を指しています。

その大蔵寺をみて、白洲さんは、

昔の寺院は、自然を実にたくみに取入れているというか、まわりの景色の中にすっぽりはまりこんで、人工的な建造物であることを忘れさせる。寺院だけとは限らない。神社も住居も、あたかも自然の一部のごとき感を与える。これは彼らがあらゆる物事に対して、敏感だったために他ならない。現代の生活は、人を神経質にさせるが、決して敏感にはしてくれない。
白洲正子『かくれ里』

とも書いています。

敏感と神経質。いっけん似ているようで大きく異なります。
変化や不確実性に対する許容範囲が大きく違っています。
前者は受け入れ、後者は拒みます。

自然を記号化する科学的表現ではなく、自然とともにある文学・歌謡のような表現に身を委ねることで、「わかる」ということの意味も大きく変わってくるのではないか。
それは自分を固定化した自分にしてしまう近現代の呪詛からみずからを解放し、自然とともにうつろいゆく自分というものをふたたび感じられるようにしてくれるのではないか。
白洲さんがもう40年近く前に書いた『かくれ里』を読んでいると、そんなことを思うのです。

花見・山見

いったい人工的な建造物を「自然の一部のごとき感を与える」ようにつくる敏感さとははたしてどのようなものだったのでしょう。

京都大学出身の古代文学の研究者で、古代歌謡研究の第一人者であった故・土橋寛さんは『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』のなかで、古代の人々が年中行事として行った花見・山見について紹介してくれています。
それによると古代の花見の意味するものは、いまの花見とはまったく異なるものだということがわかります。

春の初め、山に躑躅(つつじ)や石楠花(しゃくなげ)が咲き始める頃、村の老若男女が近くの山に登って、共同飲食をし、歌ったり踊ったりする年中行事を「花見」というのは、山の花を「見る」ことが行事の中心であったからで、花見はタマフリの効果があると信じられたのであり、花見をすると、年寄りは中風にならぬという所もあった。
土橋寛『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』

また花見・山見は年中行事としてだけでなく、「日常的にも生命力を強化する目的で山の花や青葉を見、また幼児が泣きやまない時も、それを見せて泣きやませようとした」のだそうです。

それは白洲さんがいう「寺社の観光ツアー客」の様子とは大きく異なります。

バスから押し出される観光客は、信仰とも鑑賞とも、いや単なる見物からも程遠い人種に違いない。ただ隣の人が行くから行く、そんなうつろな顔つきで、いってみれば、テレビや洗濯機を買うのとなんの変わりもありはしない。
白洲正子『かくれ里』

テレビや洗濯機を買うようにモノを見るか、自然のタマ(魂)にふれるためにモノ見を行うか。前者は同時代の雰囲気と一体化した「自分」の視線、後者はある意味では自分の身体を超えた周囲の環境と同体化することで時代もこえた普遍性を持ちえるような視線ではないでしょうか

タマフリ

ところで、先の引用中にあった「タマフリ」とは、

「タマ」(生命力・霊力)を振り動かして活力を与える「魂振り」の呪術を意味する語であるが、一つにはタマフリに該当する漢語がないために、二つには遊離魂の観念に基づくタマシズメの要素が混入するようになったために、漢字表現は「鎮魂」でありながら、訓にはこの儀礼本来の名称であったタマフリの語が施されているのである。
土橋寛『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』

そうで、平安朝の宮廷では、毎年11月中の寅の日に鎮魂際=オホムタマフリが行われていたのだそうです。
このオホムタマフリの儀礼は、いまでも奈良県天理市にある布都御魂大神を主祭神とする石上神宮に伝承されているといいます。

フユからハルへ

松岡正剛さんもこの土橋さんの『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』を読んで、こんな風に解説してくれています。

古代日本では、魂に基本的には2種類があったんだね。いまふうにいうと、遊離魂と身体霊です。中国ふうにいえば「魂魄」(こんぱく)というときの「魂」が遊離魂で、「魄」が身体霊になるんだけど、日本で「鎮魂」とか「鎮魂祭」というばあいは、この遊離した魂を身体に鎮めることをさしていた。ただし、ここでちょっと問題になるのは、この鎮魂というのにタマフリとタマシズメの両方があったということなんだ。

遊離魂を身体に鎮めるのがタマシズメ。一方、身体霊を揺り動かして身体の霊力を目覚めさせるのがタマフリなんだそうです。

古代の花見はこのタマフリだった。花や山の霊力を借りて、身体の霊力を目覚めさせるんですね。だから、冬が終わって春になる際に行われた。

さらにいえば、オホムタマフリの儀礼が、ちょうど太陽が1年でいちばん弱まる冬至の時期に行われるのにも意味があって、太陽の霊力を呼び覚ますのが目的だったわけです。

何よりフユは「振ゆ」です。そして、フユが終わればハルになる。ハルは「張る」であり、花のつぼみが張る季節です。



素材が単なる材料と化した時、彼らの技術も低下した

土橋さんはその平安朝の天皇家が行ったオホムタマフリの儀礼のもとになるのが、物部氏が行っていた儀礼だったとみています。
先に紹介した布都御魂大神を主祭神とした石上神宮は物部氏の祖神であり、布都御魂大神はフルノミタマです。

霊力とか神とか魂とかいうと、現代に生きる僕たちはなにやらあやしげなものを想像してしまうわけですが、結局、科学とは異なるより繊細な目で自然をみた古代人の知識の体系だったんだと思います。

昼と夜、冬から春へ。
繰り返される自然の変化のなかで生きながら、自分たちもタマフリの儀礼などを行うことで生物としてエントロピーに抗っていく。記号化された表現により知識を固定化するのではなく、年中行事として日常の行事としてマツリを繰り返すことで身体的な知を維持したのでしょう。

それは固定化することで表現の維持をはかるピラミッドやギリシアの神殿とは異なり、20年ごとの式年遷宮によって遷し変えることで維持をはかる伊勢神宮のあり方の違いにもリンクします。

その現代のものとは異なる知識の体系こそが、人工的な建造物を「自然の一部のごとき感を与える」ようなものづくりをできるようにしていたのでしょう

ここには石をめぐる一つの世界、石造の技術にたけた人々の、大きな集団がいとなまれたに相違ない。そして、みささぎを造った伝統が、観音寺城や安土城に生かされたのではあるまいか。古代の信仰には、いつもそういう現実的なものがある。人間の生活と切り離せないものがある。彼らは自分の生活を支えてくれる石や木を神と崇め、素材に問い、素材から啓示を受けた。そういう心を失って以来、別の言葉でいえば、素材が単なる材料と化した時、彼らの技術も低下したのである。
白洲正子『かくれ里』

「石や木を神と崇め、素材に問い、素材から啓示を受け」る知の体系に対して、「素材が単なる材料と化」す知の体系においては、もはや素材としての自然を抽象化された記号としてしかみることができません。

それが自然の資源が乏しい砂漠に覆われた世界に生きる人々の知であるならわかります。しかし、ほっておけば勝手に雑草も木も生い茂るこの高温多湿な世界に生きる人々まで、抽象化された記号によって得られる知だけで満足しているのはどうなんでしょうか?
そんな自然のなかで生きた日本人は、不確実な世界の変化を受け入れる敏感さをもって、自分たち独自の知の体系をもっていたのだと思います。

その知の喪失を僕はなんとももったいなく感じるのです。

 

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