意味を超えたところにある何か

今日、写真をみる視線をアイトラッキングで調べていて発見したこと。何気なく写真をみる人びとの視線には共通するパターンがあるのだということ。そして、そのパターンは決して意味のあるパターンだとは限らないこと。意味を超えて人びとの目をひきつける何かが写真のうえにはあるのだけれど、それは意味を読む目からはわからないのだということ。

そんなことからも、身体にはきっと僕らの意識が読み取れない意味を超えた意味を読みとる力が備わっているのだと感じます。

生き物と表現の残滓

『デザイン12の扉』という本のなかで養老孟司さんは、「脳というのは、固定した表現をほとんど無限につくり出している器官」であると言っています。

今日のエントリーの話はまずここからはじまります。

養老さんは、ピラミッドやミイラの例も出しつつ、デザインを含む表現という人間(脳)がおこなう行為を、人間(脳)それ自体と比較して「生き物は二度と同じ状態にあることはなく、反対に表現は決して変化しない」と言います。
生物とその表現を、変化するものと固定化されたものという対比でみているわけですね。

この「表現」には人工物としての情報も含まれます。
養老さんは「情報化社会は脳化社会であって、なかなか消えないゴミをたくさんつくりだす社会」と考えているようです。

何かを伝えるための表現は用が終われば存在する必要はないのですが、残念ながら表現するためにはほとんどの場合、人間が知覚可能なモノを生み出さなくてはいけません。口から発せられた言葉のようにあとに残らないものもまれにありますが、紙のうえやWeb上に書かれたテキストをはじめ、絵や書籍、そして、商品や都市、そして、養老さんがいうピラミッドやミイラなどをはじめ、多くのものは、それが生み出される際の表現という用途を越えて存在し続けます。

もちろん、このブログのエントリーも。
表現が済めば用済みで消えてなくなってもいいはずですが、それはWeb上に存在し続けます。
まあ当たり前ですね。そもそもWeblogなんですから。

そういうことを踏まえて、養老さんは「生き物は二度と同じ状態にあることはなく、反対に表現は決して変化しない」と言っています。

もちろん、厳密にいえば、人間によって表現されたものも変化します。その意味では諸行無常です。
しかし、養老さんがいうように「長い目で見れば情報も同じ運命にあるとはいえ、まず消えるのは人間の方」です。
そして、人間が消えても表現の残滓としての情報やモノはこの世に残り続けます。表現という用途が失われたらただのゴミかもしれないのに、です。

捏造される「自分」

また、一方で養老さんはこんなこともいっています。

人が変わらないことを前提とした<ヘンな社会>が現代とも言えます。わたしが子供のころは、人間が変わらないという常識はなかったですね。
養老孟司「生物と表現のパラドックス」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

人間が変わらない世界では、わたしは常に「わたし」です。
わたしという人物が変わらない同一性をもつという信仰が「自分探し」につながってしまうのではないでしょうか。
それは昨日の「「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること」で書いたとおりです。

そこで僕は、

いま大事なのは<「もう一人の自分」をみつけること>であって、単なる「自分探し」じゃないんだと思います。

と書きました。

わたしなどというものは常に変わる諸行無常な存在だという観点に立てば、「自分」とは探す対象ではなく、つくる/つくられる対象であると思うはずです。しかし、現在の<ヘンな社会>では、人が変わらないことが前提とされてしまっているので、どこかに確固たる「自分」というものが存在することが仮定され、自分をつくろうとする方向ではなく、すでにあるものを探そうという方向に意思がはたらいてしまいがちです。

ただ、実際にはそんな確固たる「自分」などというものははじめから存在しません。
存在しないのだから探しても無駄で、探す行為自体が自分自身を捏造することになる。行為の積み重ねによって自分らしさのようなものが自然につくりあげられるというよりも、歴史が書かれることで実際とは異なる歴史を語るように、なんら自分自身とは関係のない「自分」が書き上げられる。身体をもった生物としてのわたしと、テキストベースで書き上げられ認識された「自分」が別のものとなります。

岡野玲子さんのマンガ『陰陽師』の1巻では、名前によって相手を縛り上げる呪の話がでてきますが、まさにそれとおなじで意識された「自分」が生物としてのわたしを縛ることになります。

エントロピーに抗う自分

また、それは松岡正剛さんが『フラジャイル 弱さからの出発』で書いていた次のような言葉とリンクします。

実際のところはその直後になんとなく事態が好転してしまうことだっていくらでもあるのだが、それはなかなか感情の記憶に残らず、事態が氷のように停滞してしまったことだけが、自分の逡巡にむすびつけられる。かくしてただひたすら弱い場面だけが貼りつくように記憶にのこるのだ。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

「自分探し」の先にあるのは、そのような自分自身を縛る呪ではないかと感じます。「自分」という言霊で自分自身を縛り上げる行為です。

それとは逆に「デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く/内田繁/松岡正剛 編著」で、松岡さんが日比野克彦さんの例をあげて提案していた、多作という創作の方法論はまったく別の自分をつくる行為だと思います。

繰り返しの行為によってつくられる自分は、まさにその繰り返しの行為によってのみ維持されます
つくった/つくられた自分を常に変化するものである生物としての身体に維持しようとすれば、それが消えてなくならないうちに繰り返し反復して身体的な記憶を保持しなくてはいけないはずです。
それは常に使い続けることでしか筋肉を維持できないのとおなじことです。そうでなければ生物はエントロピーに抗えない。それは表現によって死んだモノとして固定化する方法とは別の方法であるはずです。

維持のための2つの方法

その意味で、維持には2種類あるのでしょう。

ひとつは記号化された表現、情報化の残滓としての情報を生みだす固定化の方法
もうひとつは諸行無常で<いろはにほへとちりぬるを>な生物的な身体において、型を通じた繰り返しの行為によって変化を常に生み出し続けることで生きたままの知識を維持する方法です。

『脳と日本人』のなかで松岡正剛さんは、

松岡 ライトサイズで限定された組織の中で、かつ始源の「もどき」が生きるような「うつし」を許容する、そういう有機的な単位がもう少しあったほうがいいと思うし、それにもうちょっと目を向けたほうがいいと思うんですね。「うつし」というのはとっても不思議ですよ。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

と言っています。

この反復を目指す「もどき」「うつし」という方法こそ生物的なエントロピーへの対抗方法だと思います。
変わり続けることで変わらないものを維持するやりかたです。

表現がゴミと化すのをすこしでも遅らせるには

最初の養老さんの「情報化社会は脳化社会であって、なかなか消えないゴミをたくさんつくりだす社会」という話に戻りましょう。

いつかはゴミとなりうる表現であっても、それは表現が伝えられる相手とともにあるあいだはゴミにならずに済むはずです。
これは「「とりあえず感覚」のデザイン」で紹介した柏木博さんの話とも通じる話です。

「とりあえずのもの」を購入して身の回りに置くことは、ものがあふれかえるばかりではありません。「とりあえず」ものを買うことは、「とりあえず」の生活をすることであり、また「とりあえず」の存在であることを受け入れることにほかなりません。
(中略)
デザイナーに、ほんのわずかでも、「とりあえず」使うものをデザインしているのだという意識があるかぎり、それがどれほど小綺麗にデザインされていても、その根底に、それを使う人々の暮らしを軽んずる気持ちがあります。「大衆の人生はとりあえず感覚でしかない」、少しそれを小綺麗にしてあげましょうというデザイン。20世紀のデザインの歴史を振り返ってみると、そんな「とりあえず感覚」は消費社会の中からしか生まれてこなかったものだといえるでしょう。
柏木博『玩物草子』

20世紀が「とりあえず感覚」のデザインの歴史であるとすれば、現在はその延長線上で情報というゴミがどんどん排出されている社会なのかもしれません。

表現がゴミと化すのを避けるためには、表現が魂のないゾンビと化すのをすこしでも遅らせるためには、それがすこしでも長い間、誰かの役に立てるよう願うしかないのでしょうか。
ここで「願うしかない」と書いたところは、本来なら「デザインするしかない」と書きたいところです。

しかし、そううまくはことは運ばないケースは多々あります。
世界は、それほどはかないものです。

「はかない」とは、「はか」がないこと、つまり、「はかがいく」「はかどる」の「はか」がないことで、努めても努めてもその結果をたしかに手に入れられないということから、あっけない、むなしい、といった意味をもつようになった言葉です。

意味を超えたところにある何か

古文書、遺跡や史跡、情緒を漂わせる古い街並み。それらは決してただの表現の残り滓とは違う趣き、価値を感じさせます。

自分のためだけに表現するのであっても、どこかで自分を客観的にみつめる「もう一人の自分」がいるとよいのでしょう。
その客観性が表現を長く生き延びさせる力を与えてくれるような気がします。

もしかしたら客観性とは、いまを生きる自分がもつ同時代性を越えて、自分に時代を越えた視点を与えてくれる視点なのかもしれないなと思います。そんなことを感じたのは、一番最初に書いたアイトラッキングを通じて見えないパターンを目が見ていることに気づいたからでもあります。
そのことで「もう一人の自分」が客観的に乗り越えるのは、自分自身の思い込みである以上に、いまの時代の雰囲気というルールに縛られた非主観的な視点かもしれないなと思ったわけです。

客観は主観を越えることで、より普遍的なひろがりをもった主観を手に入れるのかもしれません。
その表現が「年の功だとか、日本型の知の普遍化としての型だとか」というエントリーで書いた、世阿弥の編み出した能の型であり、南無阿弥陀仏なのではないでしょうか。

やはり昨日の「「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること」で書いたとおり、「もう一人の自分」としての客観性とは、時代を超えて、

つまり、現代の雰囲気というルールに飲み込まれた、

外部を頼りに外からの視点を獲得するのではなく、あくまで外部から自分をみつめることができる<「もう一人の自分」をみつけること>なんでしょう。

それには、現代の意味の世界に生きる自分自身の意識を超えて、見えないパターンを見る目を含めた身体の知を信頼した生き方がもうすこし必要とされるのではないかと思うのです。

   

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