「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること

上田篤さんの『庭と日本人』という本を読んでいて、世阿弥のこの言葉にひかれました。

見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり
世阿弥『花鏡』

ここでいう「我見」は舞台で舞う自分の目であり、もうひとつの「離見」とは舞台で舞う自分をみるもう一人の自分を指しています。

世阿弥はそういう二人の自分をもって能は大成するといい、これは「離見の見」といわれるものだそうです。

自分の心をコントロールする

この例を出しつつ、上田さんは<茶の湯もおなじだろう>と言っています。

茶の点前をする自分のほかに「もう一人の自分」がいて、茶の点前をする自分を見ている。そういう視線にたいして過ちのないように茶の点前をしなければならない。いわば主観性と客観性とをあわせもつ芸である。ということは、茶道という芸は自分の心をコントロールすることなのだ。自分の心が芸をコントロールすることではないのである。
上田篤『庭と日本人』

この<自分の心をコントロールする>のであって、<自分の心が芸をコントロールすることではない>という一文にはやられました。

芸をコントロールしようとしてもダメなんですね。
そもそもの自分の心をコントロールしないと芸にならないということです。

ここで大事なのは、<主観性と客観性>というのは、現代的に前者が感覚的・個人的なものであり、後者が科学的・社会的なものであるかのように考えてはいけないということだと思います。この主観性と客観性の区分は、科学的に証明可能だとか、社会的に認められているだとか、そういうこととそうでないものを分ける現代的な見方とは明らかに異なる<主観性と客観性>の区分だと思われます。

いってみれば、主観も客観もいずれもが個人の感覚を抜け出るものではないし、どちらもそれでいて普遍的なものにつながっているものだと思います。
それは内部からみるか外部からみるかであって、いずれも自分の視線であり、異なる<二人の自分>をもつことなのでしょう。

「自分探し」より大事なのは<「もう一人の自分」をみつけること>

そして、<そうなると、芸はたんなる「術」ではない>ということになります。<「道」ということに通じる>のです。

術は単純に技をさすが、道は心のあり方を問題にするからだ。このばあいは心をコントロールする「もう一人の自分」をみつけることである。つまり自分をコントロールする自分をみつけることだが、それは修行によってしかえられない。
上田篤『庭と日本人』

そうなんですよ。いま大事なのは<「もう一人の自分」をみつけること>であって、単なる「自分探し」じゃないんだと思います。

「自分探し」と称して、「自分のやりたいこと」だとか、そのために必要な技術の習得に明け暮れるのはなんか違う気がします。
あるいは、逆にありもしない「本当の自分」なんかを探していると称して、なにも行動しようとしないのも、どう考えても違うでしょうって思います。

先日、「自分の基盤を考えながらつくること」というエントリーを書きましたが、そこで書いたのは結局、「自分探し」より「自分づくり」が大事でしょうということでした。
そして、その際には「自分が何になるか」を自分の内からの視点でみると同時に、外部からの視点でもみる必要があると書きましたが、これこそが<「もう一人の自分」をみつけること>なんだと思います。
それはいわゆる客観性の獲得とは違うのであって、外部を頼りに外からの視点を獲得するのではなく、あくまで外部から自分をみつめることができる<「もう一人の自分」をみつけること>なんでしょう。

そして、それはとうぜん<修行によってしかえられない>んじゃないでしょうか。
ひきこもりぎみの「自分探し」は横行していても、この「修行」が現在欠乏している状態なんだと思います。

自分は仕事ができる、自分は名人だと思って仕事をするのが一番困る

この「修行」というのをもうすこしイメージしやすくするには、向井周太郎さんによる『ふすま―文化のランドスケープ』が参考になります。

その本のなかで向井周太郎は、父親であり、吉田五十八村野藤吾などの有名な建築家の建築のふすまづくりなどを手がけた経師・表具師である向井一太郎との対談のなかでこんなことをいっています。

周太郎 そういえば、自分は仕事ができる、自分は名人だと思って仕事をするのが一番困るといっていらしたことがあるのを思い出しました。たとえば、かりに建具職人がおれは障子の框をこんなに細身に作れるんだと名人がったとしても、障子紙があまりに張りにくかったり、あるいはなんとか張れたとしても、紙の張り代と框の関係がかならずしもきれいといえず、むしろ醜かったりする場合があるわけで、こうした経師の仕事との関係などを配慮できない自分本位の考えだけで仕事をするような職人は、決して名人ではないという趣旨のことをおっしゃっていましたね。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

ここに<「もう一人の自分」をみつけること>ができるようになるための「修行」を積んだかどうかの差が出てくるのではないかと思います。
さまざまな分野のものづくりにおいて、現在は専門化が進み、分業が当たり前になっています。そのとき、自分の仕事だけをみて「自分は名人だ」などと思ってもダメです。全体としての仕事がうまくいかないと話になりません。

互いの仕事を尊重し、お互いの仕事を大切にする

これを受けて、父親の一太郎さんは<そうなんです。お互いの関係を考えないんです>と答えています。

一太郎 全体が調和することをお互いの目標に、そのなかで自分がどのように技を提供していけばよいのか、その兼ね合いをきっちりと見きわめながら行うというそれぞれの仕事が大切なんです。自分の技を単に誇示するような仕事は必要ないんです。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

全体の調和のなかで自分の仕事の兼ね合いを見きわめながら仕事ができるようになるためにも<自分の心をコントロールする>ことができる<「もう一人の自分」をみつけること>が大事なんだと感じます。

一太郎さんは、<全体の協調>のなかで<自分のセンスなり技や創意をどのように発揮すればよいのか>を<絶えず見きわめて仕事をする>ことが大切だといい、<その意味では、いわゆる名人はまったく必要ない>といっています。

一太郎 お互い助け合っていいものを作り上げるということなんです。そのことはお互いの仕事を尊重し、お互いの仕事を大切にするということでもあるわkです。それに、お互いの作法、お互いの礼儀というものも大切なんです、けれども、職人で、なかには礼儀を知らないものがいますね。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

これもある意味では「自分の視野を広げるためにも他人の意見には耳を傾けなきゃ」で書いたことに近いですね。
なんでも「自分、自分」では、結局、自分がつくりあげたいものまでつくれなくなってしまうんだと思います。

<全体の協調>を見る目=もう一人の自分

最初の能の話に戻すと、「お能・老木の花/白洲正子」でも紹介したように、世阿弥は能を「見世物」だと考えていたということが重要です。見世物というのは観客と能楽師をはじめとする舞台に立つものがともにあって成り立つ芸だということです。ここには能の<全体の協調>をみる世阿弥の目があるのだと考えます。

だからこそ、<全体の協調>をみる「もう一人の自分」が大事なんだと思います。

しかし、残念なことに、「自分探し」ばかりが横行している一方で、<全体の協調>をということを視野にいれながら「ものづくり」ができる<自分の心をコントロールする>「もう一人の自分」という視野をもてる広い視野をもった人がすくないようです。
本当は「自分探し」より「もう一人の自分探し」のほうがはるかに大事なことのはずなのになあ、と思います。

そして、これは単に個々人も問題であるだけではとうぜんありません。組織が人を雇う際にどのような考えで雇うのかということにも関わってくる話です。

一太郎 仕事の質や精進よりもお金さえとれればよいという考え方が今日の風潮ではないでしょうか。
職人を育成する側の考え方にも同じことがいえます。弟子として若い人を雇っても、立派な職人に育てようとする考える家が少なくなったことです。単に手が足りないのを補うためなんです。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

<単に手が足りないのを補うため>。そこにはなんの計画性もないですよね。いかに空間的にも時間的にも全体がみえる人がすくなくなったかということでしょう。
デザイン的発想がいちじるしく欠けていますよね。

組織の経営層にいる人がいまこそデザイン思考やかつての日本の職人文化ののようなものを勉強して、再認識すべきじゃないのでしょうかね。
いまこそデザイン戦略なんじゃないですかね。「デザイン戦略とはデザインプロセスを経営戦略として立案すること」ですよ。

  

関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック