「とりあえず感覚」のデザイン

昨日紹介した『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』を読んで関心をもったことの1つに、家政学とデザインの関係があります。家政学は19世紀アメリカで盛んになり、建築とおなじくらい重要なものと捉えられている学問だと柏木博さんは紹介しています。

家庭内で行われていることを科学的に考えて生活やその環境のあり方を構想するのがアメリカにおける家政学です。それはテイラー・システムやフォードのシステムが労働の場において行ったことの家庭版といえます。

ビーチャー姉妹は、家事労働を軽減するために、まず具体的な設備に注目します。設備を使いやすくすれば、家事の時間や費用や労力が節約できると考えたからです。家庭内で家族全員が家事に参加することを表明しています。それは当時のアメリカの中産家庭でサーバントを雇うことなしに、つまり家族ではない黒人を使役しないことを意味します。

19世紀の終わりに、ビーチャー姉妹はいまのシステム・キッチンの原型をつくり、キッチンとダイニングがつながった住宅の設計をしています。
この設計はフランク・ロイド・ライトが最初だと言われていますが、実はビーチャー姉妹が最初だったそうです。

キッチンに始まって生活空間を構想しデザインした人が、建築家ではなく家政学者だったことが重要です。もう一つ見逃せないのは、黒人奴隷解放の小説『アンクルトムの小屋』の作者としてよく知られるハリエット・ビーチャー・ストウが、同時に生活空間の改革者だったことです。

家政学とデザインが結びつくことで、黒人奴隷解放という変革を実質的に(つまり、奴隷がいなくても生活が成り立つように)可能にしたことが、今日のデザインを考えるうえでも示唆的ではないでしょうか。

以前に「人間中心のイノベーションのヒント」なんてエントリーを書きましたが、現在、IDEOなどが取り組んでいるユーザー中心のデザインによるイノベーションは、まさにデザインの側から生活を変革していこうというものです。また、それとは別の流れで「なぜデザインなのか。/原研哉、阿部雅世」でも紹介したように、原研哉さんなどがデザインから日本の生活を見直すという作業を行っています。
生活の側からのデザインにより、生活そのものを改革していこうという方向性は、かつての家政学とデザインの関係に似ているとみることができます。

生活行動を記録し生活をリデザインする

歴史的にみると、アメリカで生まれた家政学の流れは、その後、家政学のないドイツに渡り、バウハウスをはじめとする建築家に取り入れられたそうです。
ヨーロッパでもそうした流れを中心に、近代デザインの草創期に家庭内をデザインし直すに当たって生活行動を記録することに気づいたのだと柏木さんは言っています。

それがミース・ファン・デル・ローエのユニバーサル・スペースにもつながっていきます。誰にでも使えるスペースですね。
また、生活行動を記録した結果を、ル・コルビジュエのモデュロールに代表されるような規格化につなげたのが、家政学的視点でのデザインによる改善でした。先のフランク・ロイド・ライトも含めた近代建築の3巨匠のプランが現在までの建築の流れに大きく影響しているのはみなさんご存知だと思います。

それが何らかの形で家政学から影響を受けているわけです。

ただ、ここで注意しておくべき点は、家政学の流れからきたデザインの見直しでは、それがもともとテイラー・システムやフォードのシステムの家庭版ということからもわかるように、生活行動を記録するといっても、身体や行動の軌跡を数値的に計測しただけの記録だということでしょう。

ユーザー中心のデザインのように、生活者の行動をそのコンテキストも含めて観察=オブザベーションすることで、改善するという視点とは違うんですね。
行動の結果のみを数値的に見ているのであって、生活行動と環境、ユーザーの目的などの相互関係を踏まえながら、ユーザー行動やそこで働く心理を構造的に分析する現在のユーザー中心のデザインとは異なります。

あくまでテイラー・システムやフォードのシステムが工場などでの労働生産性の向上のために行ったのと似たようなことを、家庭内での労働の設計に関しても行ったと理解したほうがよいでしょう。それは生産性の向上であり、効率化のためのリデザインだったといってよいでしょう。

規格化

規格化に関しては、西洋ではバウハウス以降にようやく人間の身体のサイズにあわせてデザインを行う人間工学的な発想が生まれてきましたが、日本には江戸時代にはすでに着物用の反物の寸法や畳のサイズをベースにした建物の規格という形が存在していました

現代の着物の源流は室町時代の小袖とされているが、この頃までの反物の幅は今よりもひと回り大きく、織手によって、また地域によって寸法もまちまちで、無駄な余り布を出さないように裁つのはとても難しかったという。大工の使う曲尺は、建物をつくるには都合がいいけれど、衣服のモジュールとしてはどうしてもうまく馴染まない、というわけで、ぴったり余りの出ない寸法を探しているうちに、着物の採寸で徐々に使われるようになったのが「鯨尺(鯨のひげでつくられていたらしい)」である。曲尺の一寸は約3センチだが、鯨尺の一寸はそれよりひと回り大きい約3.8センチで、一尺で比べると8センチほどの違いがある。

建築においても柱と柱の一間を尺で区切る基準寸法があり、室町時代から桃山時代までは一間七尺を基準寸法としつつ地域差があったのですが、江戸時代以降は一間六尺を基準寸法としたそうです。
そして、それに応じた計測のツールとして曲尺が用意され、畳や襖・障子のサイズもとうぜんそれに合わせてつくられるようになったのです。

この基準寸法は現在も日本の住宅空間の基準となっています。また、それは日本人の住空間に対する意識の根底にあるといってもよいでしょう。
身体のサイズにあわせた規格化という意味では、日本のほうがはるかに進んでいたとみてよいでしょう。

日本の生活とは乖離したデザイン

ふたたび歴史的な視点に戻ると、家政学的な視点に基づく西洋のデザインはその後、改善の経緯などがすっぽり抜け落ちた形で、結果としてのシステムキッチンなどだけが日本に入ってくることになります。

そこには、もともとの家庭内で行われている行動を記録して暮らしをリデザインするという発想はなく、ヨーロッパの暮らしの記録をベースにつくられた形式だけが導入されたのです。
日本人の体型にあわせることも、もともと日本にあった食生活や暮らしの様式なども考慮されないまま、ただ、結果としての西洋の新しい家具が新しいというだけで導入されたのです。

阿部 たとえば「システムキッチン」と言われている、いわゆるヨーロッパやアメリカから輸入されたスタイルを考えると、ヨーロッパの場合、日本ほど頻繁に料理をしないし、皿や小鉢の種類も多くないからあのシステムの中に全部納まります。でもに本の、特に現代の食生活というのは、あのシステムには絶対納まらない。一度あの型を忘れて設計しなおさないと。
原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』

もともと自分たちの身体のサイズや暮らしの様式にあったデザインを捨てて、西洋の新しいデザインを鵜呑みにしてしまった結果が現在の日本の暮らしの環境となっています。

頻繁に料理もしないし、皿や小鉢の種類もないヨーロッパの食生活を基準としてつくられたシステムキッチンをそのまま使ってしまっている。「鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち/長町美和子」や「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」で紹介しているように、日本にはそれまでまったく異なる生活の様式やそれにあわせたデザインがあったはずなのに、それらを捨てて、まったく生活にフィットしない西洋のものを取り入れてしまったところに、いまだに生活のスタイルともののデザインの齟齬が残ってしまっているのではないかと感じます。

とりあえず感覚

さて、そんな風に家政学とデザインの関係を教えてくれた柏木博さんに興味をもったので、『玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし』という本も買ってみました。柏木さんが暮らす家の写真がたくさん紹介された見た目にもきれいな本です。

そこにこんな言葉がありました。

「とりあえずのもの」を購入して身の回りに置くことは、ものがあふれかえるばかりではありません。「とりあえず」ものを買うことは、「とりあえず」の生活をすることであり、また「とりあえず」の存在であることを受け入れることにほかなりません。
柏木博『玩物草子』

柏木さんのお宅はあまりものが多くないそうです。気に入ったものしか買わないようにしているので、ものが増えないそうです。
無駄を省き、かつ必要を際立たせる「最小限のデザイン」」でも紹介しましたが、深沢直人さんも似たようなことを言っていましたね。

<最小限で生きることは、とてもリッチなことだと思います。ものがない、ただ空いた空間にいるということはけっこう贅沢なことです。>

そして、柏木さんはこんな風にも書いています。

デザイナーに、ほんのわずかでも、「とりあえず」使うものをデザインしているのだという意識があるかぎり、それがどれほど小綺麗にデザインされていても、その根底に、それを使う人々の暮らしを軽んずる気持ちがあります。「大衆の人生はとりあえず感覚でしかない」、少しそれを小綺麗にしてあげましょうというデザイン。20世紀のデザインの歴史を振り返ってみると、そんな「とりあえず感覚」は消費社会の中からしか生まれてこなかったものだといえるでしょう。
柏木博『玩物草子』

これは「これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね」や「丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイル」で書いたことともつながる話ですね。

  • 「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらなければならない。そういうもののほうが、長年にわたって使われるからだ。そして人生を豊かにしてくれるからだ。(奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
  • 素材の旨みを引き出そうと、手間を惜しまずつくられる料理。表には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」という力の出し惜しみはない。(西村佳哲『自分の仕事をつくる』

言葉として明示化できる機能性や派手なスタイリングの面だけではないところで、生活とデザイン、心とデザインの関係を、あらためて見直すべき時期なのかなと思います。

それは家政学的な数値的な記録を元にした改善もありますし、ユーザー中心のデザインのように質的データからの改善もあるでしょう。いずれにせよ「とりあえず感覚」で生産し消費する社会はすこしずつでもいいから変えていかなくてはいけないのではないでしょうか。

「とりあえず」の生活をおくること、「とりあえず」の存在であることをやめるためにも。

   

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