包むデザイン:身体を包む衣服、都会に包まれる衣服

昨日、「携帯電話が入らないのは衣服のデザインの問題なのか?」を書いてみて、あらためて衣服のデザイン(スーツのデザインじゃないから)を考えてみようと思ったのエントリー。

まずスタートはここから。

大陸では、敵が攻めてこないように城壁で土地を囲います。これは寒いから衣服を着るのと同じで、働きを果たすことを目的として何かをつくる<機能主義>です。しかしながら、城壁と衣服とは、同時にまったく違う意味をもつことに注目すべきです。城壁の中は人間がつくったもので埋められ自然は排除されるのに対し、衣服の内部は人間がつくらなかった身体という自然だからです。
養老孟司「生物と表現のパラドックス」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

機能主義は機能主義でも、ポケットに携帯電話が入るかどうかという機能ではなく、まず衣服としての第一の機能としての人間の身体を包めるかがここでは問題にされています。

それには、

携帯電話を入れられなくても服としては成り立ちますが、人の身体がうまく入らなければ衣服としては機能しません。
  • 凸凹の多い人間の身体(日本人は西洋人にくらべ凸凹が少ないといっても十分に凸凹してます)をうまく包み込んでおけるか。
  • その衣服それぞれが利用されるシーンでの動き(オフィスワークとスポーツのシーンでは動きが違うでしょう)に対応できるか。
  • 外部環境の気温や湿気に対応してできるだけ快適に過ごせるよう身体を包み込んでおけるか。
  • 経年変化にも耐えられるよう十分に丈夫な素材でつくられているか。

などがまず問題になってくるはずです。

ポケットが多い服がお望みなら、ハンティングやフィッシング用のウェアによいデザインの服があるのだから、それを着ればいい。僕は実際に着てますしね。

都会に包まれるための衣服(のデザイン)

ただ、身体を上手に包む機能を満たしても、今度は衣服を着た人間を都会が受け入れるかどうかという問題が出てきます。

衣服を取り替えるのは、自然に与えられたどうにもならない身体を、あたかも交換可能な人工物であるかのように見せかけるためなんです。そうしないと、人間は都会には入れてもらえない。実際、電車の中で赤ちゃんに母乳を飲ませる母親はもはやいなくなりました。
養老孟司「生物と表現のパラドックス」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

単にこれだけみても、衣服には、非人工的な身体を包み込む機能と、人工物である証明を行うことで都会に入れてもらえるようにする機能があることがわかります。
身体を包むデザインと都会に包まれるためのデザインです。

もちろん、都会もさまざまなサブカテゴリーに分類されていて、そのカテゴリーごとに推奨されるデザインがあるようなないような状態です。たとえば、それがオフィスならスーツとかそういうものなんでしょうけど、それが変化してきているから問題なんでしょう。
でもね、デザインの問題を問うのに、そんな過渡期の変化のなかのあいまいな定義じゃデザイン問題の解決がむずかしいのは、システムなんかをつくってる人だったらわかるでしょう。要件が明確でなければデザインはしにくい。もちろん、そういうなかでもきちんと問題を捉えてデザインを通じた提案を行うのが真のデザイナーだと僕は思うけど、いまの問題はどう考えても、携帯電話を入れても型崩れしないポケットをもったスーツをつくることでは解決しないと思っています。そんな素人考えのアイデアをデザインにすることはできないと思います。

なぜなら、それはもっと広義な意味で、今後のビジネスのあり方をどうするか、働き方をどうするかという問題と関わってきているのですし、それがどのような衣服を受け入れ/受け入れないかの<都会>そのもののあり方のデザインなんですから。
卵が先か鶏が先かではなく、衣服のデザインと都会のデザインは両方をいっしょにやらないと意味はないと思っています。

スーツ生地と水、そして、羊

もう1点。今日のところは軽く流す程度にしておきますが、先の経年変化と絡んだところで、僕はスーツを買う場合、イギリス生地のものを買おうと思っています。仕立てはどこでもいいんですけど、生地そのものはイギリス産のものがいいな、と。それは2、3年そのスーツを着るとわかります。イギリス産の生地って長い年月を着てもヘタレが少ないというか、いい感じにヘタレてくるんですよ。

これは前に何かの雑誌でみたんですけど、原材料である羊毛そのものが違うというより、何より水が違うんだそうです。水ですよ、水。そうなると、これはもう人間のコントロールが非常にしにくいものです。「年の功だとか、日本型の知の普遍化としての型だとか」で紹介した、楽焼15代目の樂吉左衛門さんが焼物は火におうところが大きいというのとあまり変わらないですよね。衣服のデザインの根幹となる生地の部分にそういうところが残っているのが僕にはうれしい。

で、そういうウール地の紡績に関しては、産業革命以来、イギリスの伝統となっているわけですが、これが結構あやうさをもっています。詳しくはまた別エントリーで書こうと思いますが、イギリスは紡績産業を拡大するために、原材料である羊毛の生産量拡大をとうぜん狙ったわけです。どうしたかというとオーストラリアで羊を飼った。羊だけならよかったものの、うさぎやきつねを母国から持ち込んだ。結果、オーストラリアの自然環境はもはや回復不可能なまでに破壊されました。このあたりの話は、ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』に詳しいので、興味のある方は読んでみてください。

衣服のデザインひとつ考えるにももはやこういうさまざまなことが絡んでいるのだと思います。
それは生まれて間もない携帯電話やコンピュータのデザインとは比べ物にならない歴史をもっていて、それはもはや単に衣服そのものだけのデザインうんぬんをいえないくらい、人びとの暮らしや文化に紛れ込んでしまっているのだと思います。
デザインとはそういう複雑に絡み合った問題をどう解決していくかの話であって、ポケットがどうこうという話では決してないと思っています。

  

関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック