狭義のデザイン、広義のデザイン

『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』という本を読みはじめましたが、これがまたおもしろくて参考になります。

この本は、桑沢デザイン塾での2000年の特別講座「デザインの二十一世紀」をもとに再構成した一冊で、全12回の講座を、田中一光さん、樂吉左衛門さん、山口昌男さん、養老孟司さん、伊東豊雄さんなどが1回ずつ講師をつとめています。

狭義のデザイン、広義のデザイン

プロローグとして、内田繁さんと松岡正剛さんの対談が掲載されていますが、ここでまず興味深い話がされています。

たとえば、こんな内田さんの発言。

内田 デザインには広義のデザインと狭義のデザインがあります。モノにかたちを与えるという意味が狭義のデザイン。中世イタリア語の<デセーニュ>がフランス語を経由して英語のデザインとなるのですが、下絵を描くことも含みつつ、デセーニュは計画する・企画するという意味に使います。これが広義のデザインです。
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

デザインへの理解を深める」で、奥山清行さんや深澤直人さんなどのデザインの捉え方をいくつか紹介しましたが、どちらかというと海外でも活躍されているデザイナーの方の考えるデザインは<広義のデザイン>だと言えると思います。
このブログで「デザイン」という言葉を使う場合にも、<広義のデザイン>の意味で使う場合が多いですね。

でも、デザインの語源としての<デセーニュ>が<計画する・企画するという意味>だったということははじめて知りました。

プランの段階でどういう価値を盛り込むのかを話し合える

この内田さんの発言を受けて、松岡さんは<デザインは主語というより述語の方が適切なんですよ。名詞ではなくデザインするという動詞に帰る、と言ってもいい。>と言っています。
結果として形となったものの「デザイン」を名詞として捉えるのではなく、形づくる行為や計画・企画する作業そのものを「デザインする」という動詞で捉えるという姿勢ですね。

松岡さんは、また以下の引用のなかで、ものの形の検討が具体的に行われる以前のプラン段階での価値検討の重要性を指摘しています。

松岡 <周縁>はディスオーダー自体でもカオスそのものでもなくて、中間的なもの、マージナルな場も射程に入れています。そうした場を復活させるのは、<指図>だと思うんです。指図はオーダーですが、でも図というくらいですからデザインです。描いた図を指して、これでいくというプラン。デザインのイタリア語の起源に内田さんが最初に触れましたが、いま再びプランの段階でどういう価値を盛り込むのかを話し合えるようでないといけません。その時の図が、ドローイングなのかスコアなのかといったことも大事ですが、それ以前の指図が欠如しています。
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

ここで<指図>といっているのは、ディレクションあるいはプロデュースと理解してよいかと思います。ただし、その指図=ディレクションは<つくるため>のディレクションではなく、<使われるため>のディレクションだと考えたほうがよさそうです。
僕の言葉でいえば、「デザインへの理解を深める」で書いたような「デザインとは、どうつくるかではなく、どう使われるかを考えること」という視点に立ち、使用価値の検討を行うことが必要ということになるでしょうか。

交換価値と使用価値

デザインがマーケティング的な欲求喚起の方向で利用されることが多い現状では、ものの価値が使用価値よりも交換価値として提示される傾向があります。
「使いたい」という欲望よりも「買いたい」という欲望を喚起することにフォーカスが置かれています。多くのものの形が「使って!(=使用価値)」ではなく「買って!(=交換価値)」と言っているようです

過度なマーケティング思考が使用価値よりも交換価値に重点をおくために、デザインにも購買時にパッと見でわかる「ものの形」ばかりを要求しがちで、そのためデザインが名詞として、狭義のデザインとして理解されてしまうという傾向もあるのかなと感じます。
あまりに売れる/売れないというマーケティング的要請ばかりが強すぎて、実際にデザインをする人たちも用途やユーザーエクスペリエンスに関わる使用価値を高める方向にはなかなか頭を使うことができなくなってしまうかもしれません。

概念化と形態化を一緒に実現するような図ができない人はデザインに向いていない

内田さんは、江戸時代前半に茶人、建築家、作庭家として活躍した小堀遠州を<指図>名人の例に出しながら、それとは逆に<指図>を忘れた現代のデザインの現場の問題として<考える人とつくる人の分離が効率追及のほうにばかり機能してしまっている現在のものづくり>を挙げています。

そして、小村雪岱という伝説のアートディレクターの道具帳に書かれた「桜はらはら、西行より少なく」といった泉鏡花の舞台デザイン用の指図を紹介し、<書いた人も舞台にする人も、西行の桜の加減がわかっていた>という松岡さんに対して、

内田 デザインは最初に「西行より少なく」という映像がしっかり浮かばないと先にゆけない。次にそれを実現する方法論を考え、最後に現場の職人や技術者との打ち合わせと続くんですが、概念化と形態化を一緒に実現するような図ができない人はデザインに向いていないですね。
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

と返しています。

これはまさにそのとおりで、最初に絵が浮かばない人はデザインに向いていないと僕も思います。

判断力は情報デザイン力、物語化の能力」や「何が起こっているのかわからない状態を脱するための9つの工程」で、判断という情報デザインについて書きましたが、細かなプロセスでいうとああいう思考法が必要ですが、最初の手持ちの情報である程度問題が把握できた際に、大まかな判断が絵として思い浮かんでいなければ最終的な判断=デザインなんてできないんです。あとのプロセスは最初の絵をよりヴィヴィッドにしたり、検証したりするためのものだといってもいいかもしれません。

それはもちろん通常のもののデザインでもおなじです。最初に問題を把握した時点で大まかな絵が浮かんでいなければ、あとからどんなに頭をひねったって大した絵は見えてこないと、自分の経験からも感じます。

世の中の問題や人が何に価値を感じるかに関心をもつことが第一歩

これをクリアしたうえではじめて、概念化と形態化をいっしょに描いた<指図>ができるかということが問題になってくるんだと思います。
この<指図>の前にはどういう価値を盛り込むのかが考えられていないといけません。というか、最初に浮かんだ絵の状態でおおよそどういう価値かは見えているんですけどね。

つまり、手持ちの情報と自分の身体に記憶された知見をうまいこと編集して、問題と価値をつなげるのがデザインの最初の一歩だと僕は思います。
そのためには実は狭義のデザインとしてのものの形ばかりを記憶にアーカイブするんじゃなくて、世の中にどんな問題があってどう解決されるのか、人はどんなことに価値を感じるのかということのほうをアーカイブしておかなきゃいけません。そこに関心をもって普段から観察による蓄積ができているかが広義のデザインができるかどうかにつながるのではないのか、と。

そのへんの他人や社会への興味をもたなくなってしまったところに、デザインがつまらなくなった原因があるんじゃないかなと思います。

長くなったので、続きは、次の「1人のためのデザイン、少数の人々のためのデザイン」で。

   

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