結局、最後には手持ちの情報を整理し、その整理のしかたに含まれるロジックとそこから垣間みえる創発的な発見によって、しかるべき回答を導きだす。その一連の作業を判断と呼ぶのだと僕は考えています。
判断するには、手持ちの情報を整理して物語化することが必要
手持ちの情報を分類し、関係性をみえるように整理する作業が、僕がよく使う言葉では「文脈(コンテキスト)」をつくるということになります。バラバラの情報を組織化・構造化して、なんらかの物語がみえるようにする。そうした作業が判断には必要です。登場人物、起こっている出来事、起こってほしい事柄、物理的環境や市場環境などの背景情報。そうした構成要素となる情報を整理してつなげて、しっくりとくる物語を組み立てるのです。
それが昨日「何が起こっているのかわからない状態を脱するための9つの工程」で書いたプロセスですね。
手持ちの情報を整理して物語をつむぐという意味では、フィンランドのマインドマップ「アヤトゥス・カルタ(Ajatus Kartta)」を情報整理法として習得するのもありかもしれません。アヤトゥス・カルタは、マインドマップのように連想を無秩序に書き連ねるのではなく、5W1Hに近い形で書き連ねるよう訓練されるそうです。
したがって、単なる発想のツールにとどまらず、物語を読んで解釈する際の分析ツールとしても利用され、逆に自分のアイデアをストーリーとして構成する表現のツールとしても活用されている。
まずは自分の腹に落ちる物語を手持ちの情報からつくりあげることができなければ、判断ができないのは当然で、判断ができなかったり、判断するまでに不必要な時間をかけている人はそうした作業をきちんと行っていないのでしょう。
デザイン思考においては常にそうなのですが、作業過程こそが思考過程なのです。
物語化のための再情報化
内田樹さんが「情報と情報化」という非常に興味深く納得できるエントリーを書いていらっしゃいますが、情報を整理して物語をつくる=文脈をつくるためには、そこで書かれた「情報」と「情報化」の違いに着目することは大事だと思います。情報化というのは「なまもの」をパッケージして、それを情報にする作業のことである。
例えば、獣を殺して、皮を剥いで、肉をスライスするまでの作業が「情報化」だとすると、トレーに載せられて値札を貼られて陳列されたものが「情報」である。
なまものを調理する過程が情報化で、調理された結果が情報ですね。
これを前提にすると、判断の際に、手持ちの情報を整理して物語化する、それによって自分の腹に落ちる文脈を手に入れるという作業は、調理された情報をもう一度、なまの状態に戻す再情報化の作業であるということができると思います。
もちろん<なまの状態に戻す>といっても、時間は不可逆ですので、いったん調理されたものを本当になまの状態に戻すことはできません。しかし、その過程をヴァーチュアルに再現することはできるはずです。なまの状態を想像することで、空の状態の情報に自身の経験を充填する。そうすることで乾いた情報がすこしウェットな状態に戻すことができます。乾物をお湯で戻すみたいなものでしょうか。
この情報の再情報化と同時に行われる物語化、つまり、手持ちの情報の整理することによる文脈づくりができれば、多くの場合、判断はそれほどむずかしい事柄ではなくなっているはずです。
作業ステップにしたがって行う意味では半分は機械的な作業ですし、あるステップの作業を終えたら次に進まなくてはいけません。もちろん、ひとつのステップに無駄に時間をかけたり不必要な議論をするのはただの害です。
判断に関する2つの誤解
その意味で、多くの人は、判断について2つの誤解をしていると思います。- 判断を積み重ねが必要な一連の作業とはとらえずに、最後に判断する一瞬だけを判断だと思っている。
- 拙速ということを理解せず、判断を最終的なものと捉えてダラダラ時間をかけて判断しようとする。
この誤解がいつまでも頭数ばかりが多い答えのでない会議をだらだらと続けることになる1つの原因なのでしょう。
適切な作業ステップを踏まれることはないし、適切な仮説を立てた上でとりあえずの判断を行い、その仮説検証を実行過程で行い、修正をかけていくというダイナミックな問題解決を行うことができなかったりします。
判断がなされない膠着状態を脱却するには
最悪なのは判断がなされないまま膠着した状態を、会議に出席するメンバーの誰もが脱することができない状況です。基本的には、会議の最初の段階で背景となる情報や各自の意見などはおおむね出ているはずです。場合によってはその場で最初にはわかっていなかった必要な情報の探索も行われているかもしれません。それでも判断はなされない。本当はそれらの情報を組み合わせて、物語をつくればいいだけです。文脈をみえるようにすれば、可能な判断なんてそう多くは残らないはずです。その作業が行われないから、判断が行われず、会議の場が膠着してしまうのでしょう。
「みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。」で書いたようなワークショップという作業自体に必要な時間をかけるのはいいですが、単に方向性の定まらない会議でおなじ話を繰り返しているだけなら時間の無駄です。
であれば、会議のメンバーのうち、自分が最終判断の責任をもっていないと思われるメンバーは、最後にもう一度、自分の考えを述べて、判断の場である会議から立ち去ったほうがいいのではないかと僕は思います。判断から降りるんですよ。そうしないといつまでたっても最終判断の責任を負う人が自分で物語を組み立てて判断するという責任を全うしようとしないからです。
もちろん、ほんとうはまわりにそんな気を使わせなくても、最終責任者が積極的に判断を行うべきです。でも、それができないのであれば、まわりが腹をくくって、責任者に責任を自覚させてあげたほうがいいと思います(世話がやけるね)。すでに必要なステップはすべて踏んだのだから、後戻りはできない状況であることを気づいてもらうしかないのです。
判断ができないのは優柔不断だからではない
話を戻すと、結局、判断ができないのは、実は優柔不断だからとかではないわけです。判断ができないことの多く理由は、目の前の問題を理解して判断ができるように、情報をきちんと整理して理解可能な物語に組み立てることができないだけです。
判断ができるようにするためじゃなく、状況を理解する能力を高めるためにも、普段から情報を整理して理解可能な文脈をつくる訓練をしていかないとだめかなと思います。
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この記事へのコメント
Yasby
いっぱいあり、これから徐々に読ませていただきたいと思います。特に情報デザインや人間中心のデザインにつきまして、多いに興味がありますので、これからもよろしくお願いします。