その本のなかでグールドがダーウィンの天才について書いている箇所が興味深かったので紹介しておきます。
ダーウィンが自然淘汰説を公言する以前のいくつかの重要な時期についてシュウィーバーが詳しく分析した結果を読んで、私はとりわけ生物学というダーウィン自身の専攻分野からは彼が決定的な影響をうけていないことに気がついた。直接はっぱをかけたのは社会科学者であり、経済学者であり、統計学者だったのである。もし、天才というものがなんらかの公母数をもつものだとすれば、興味の広さとさまざまな分野の間で実り豊かな類似性を構想する能力とを私はまず挙げたいと思う。スティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指 進化論再考』
ダーウィンが進化生物学における自然淘汰説を構想するにあたって、マルサスの人口論から着想を得たことはよく知られています。それだけでなくダーウィンはアダム・スミスやオーギュスト・コントなどからもヒントを得ていたそうです。
ただ、それらはあくまでダーウィンが深く進化のしくみについての考察を行いつづけたなかで、既存の生物学の外に出るための遊びとして、異なる領域の知に触れてみたということなのでしょう。
あくまで軸があってこそであり、軸があってそこから外れるからセレンディピティが生まれるのだと思います。
専門性への集中、総合的な視野
これは前に紹介した『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』で茂木健一郎さんが、レオナルド・ダ・ヴィンチを評して<総合的な素質をもったうえで、専門性に関しては驚異的な集中をする、余人を寄せつけないような強度をもった活動をすることが必要なわけですから、たやすいことではないでしょう>と言っていたこととも重なってきます。ダーウィンの場合であれば、進化のしくみを解明するということに集中しながらも、既存の生物学の文脈から抜け出すための光明を見出すためにも、広く総合的な視野が必要とされたのでしょう。
創造性は余剰から生まれます。「文脈から外れた活動がなければ、ひらめきもないし、創造性もない」というのは、『脳と日本人のなかで』茂木健一郎さんが言っていることですが、特定の文脈に集中しつつも、同時にそこから積極的に外れていく活動も行わないと、新しいものは生まれてこないのではないか?
パンダの親指
パンダの親指は、大好物の笹をつかむために、人間とおなじようにほかの指と向き合うように曲げることができるそうです。親指とほかの指が向き合うことで、ものを握れるのは人間の専売特許ではなかったのか?そうではなかったのです。パンだの親指はほかの5本の指と向き合うのです。
んっ? 「ほかの5本の指」?
そう。パンダには6本の指があるんです。いや、正確には5本の指と親指に見え親指のように動かすことができる手首の骨が。
パンダの親指のように動く手首の骨こそが、文脈から外れたところから生まれた創造性そのものではないでしょうか。
どうにか笹を握ろうと試みつつも、すでに用途が確定された5本の指の文脈を変更することはできず、とりあえず間に合わせ的に手首の骨を使った。以前に紹介した遠藤秀紀さんの『人体 失敗の進化史』でも書かれているように、人間もまた耳のなかの3つの骨(つち骨、きぬた骨、あぶみ骨)を顎の骨の一部を借りる形で進化させました。いずれも文脈から外れることで創造を可能にした例といえるのではないでしょうか。
生物進化の創造性をそのまま人間活動の創造性につなげてしまうのは間違っているのかもしれません。
しかしながら、なんとも魅力的な類似ではありませんか。
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