自分がおもしろいと思うことをやって、もっと自分をアピールしましょう

自分のことを認めてもらいたい。それはすくなからず誰もがもっている欲求なんだろうなと思います。

フラジャイル 弱さからの出発/松岡正剛」でも引用したように、利他的に思える他人へのサービスも本来、もうすこし利己的な面をもっており、<ヒトは、こうした「ふるまい」を抜きにしては生活できないような社会進化をとげているのかもしれず、それを通して何かを伝播させ、授受してきたのだと考えるべき>なんだと思います。

「ふるまい」は自己の他者への自由をもたらしてきた。われわれはこれを社会生活における他人へのサービスだとおもいこんでいるけれど、そうではない。ヒトは、こうした「ふるまい」を抜きにしては生活できないような社会進化をとげているのかもしれず、それを通して何かを伝播させ、授受してきたのだと考えるべきなのだ。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

裏を返せば、自分をアピールしたければ、<社会生活における他人へのサービス>をもっと積極的に行う必要があるのではないかとも思います。

そういう「ふるまい」をせずに、自分が他人に認めてもらえないからといって、文句ばっかり言ってるのはどうも好きになれません。普通に文句を言うくらいなら、もっとがんばりましょって思います。

自分がおもしろいと思うことを行う

先にも書いたとおり、実は、利他的なサービスも、利己的に単に自分がおもしろいから行う「ふるまい」も、外から見たらそんなに変わらないものなのかもしれません。

もちろん、他人の利益を侵害するような「ふるまい」であれば、問題にもなります。
しかし、そうではなく、自分がおもしろがってやってることでも、他人もそれを見て「なんかおもしろそうなことやってるな」と思ってもらえるような「ふるまい」であれば、それが利己的であるか利他的であるかは問題にはなりません。

なので、僕は自分をアピールするためには、何より自分がおもしろいと思えることを追求していく必要があるのではないかと思っています。

その際、他人がどう思うか、他人にどんなメリットがあるのかを考えるよりも、自分がどう思うか、自分の将来(現在ではなく)にどんなメリットがあるかを考えたほうがいいと思うのです。
もちろん、それは先にも書いたとおり、他人の迷惑を無視していいということではありません。ただ、他人の目を必要以上に気にしたり、世間体を気にして自分がやりたいことをあきらめているなら、それは間違いだと思うのです。

やれることからはじめる

いや、でも、それ以前に「自分がおもしろいと思えること」が何かが自分自身でわかっていない人が多いんでしょうね。

でも、それは前にも書いたとおり、「やりたいことが見つからないならやれることからはじめてみては?」なんですよね。「自分がおもしろいと思えること」がわからないという人の多くは、それ以前に「やれること」さえやっていないのではないかと感じます。
自分をつくる:其の3.自分の「好き=数奇」をつくる3つのポイント」では、「好きになることに臆病にならない」とも書いています。

何にもやらないのに「自分がおもしろいと思えること」なんて見つかるわけないですよね。
1つ1つの経験によって、目が肥えてきたり味がわかるようになってきたりと、おもしろさを感じる感覚器官が研ぎ澄まされて、経験と結びついた知識も増えていくわけです。繰り返しの実践しかないはずです。練習もせずに知識ばっかり貪っていても、何も生まれてはきません。

繰り返しの実践あるのみ

このへんはさっきの「お能・老木の花/白洲正子」でも書いたとおり、能が600年間もかけて実証してきたとおりだと思います。
面倒くさがって端折っていては、「自分がおもしろいと思えること」なんて見つかるわけないんですよ。

「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・」で書いたとおり、<概念や観念だけでものを見るというのは、つまり、事実を直視できないということで>、<事実は毎回異なるのに、個々の違いを見ずに、自分が知っているパターンをそのままあてはめて見ることしかでき>ずに、結局、自分の腹に落ちていくような感じ方ができないわけですよ。

それではいつまで立っても「やらされてる感」ばかりが募るばかりで、おなじことをやっていても「自分がおもしろいと思えること」なんて見つかりません。

アピールすべきは意欲や嗜好性

当たり前ですけど、他人から見たら、その人が何をやりたいのか、何をやろうとしているのかを見せてもらえなければ、それに協力することもできないし、その人のことを認めてあげようとしてもどう認めればいいかわかりません。

だから、相手に認めてもらおうと思えば、まず自分の嗜好性や意欲をアピールしてみないとはじまりません。
別の見方をすればアピールするっていうのは結局「自分のやりたいと思うこと」をとことんやってみることだと思います。利己的なのか利他的なのかが関係なかったように、やっぱりそこでは対自的であるか対他的であるかは関係ないんですね。

うまくできるとか、能力があるとかじゃないんですよ。自分がどんなことをやりたいと思っているのか、それにどれだけ意欲をもっているのかということ自体をアピールすべきです。

かっこつけて、うまさや能力を表現しようとしたり、うまさや能力が身についてないからといってあきらめたりするから、他人に認めてもらえないのです。
かっこつける必要などないんです。他人に認めてもらいたいなら、まず自分自身で自分の嗜好性や意欲を認めなければ、そんな他人に伝わるはずがないんです。

自分の好き=数寄を磨く

もちろん、その意欲の矛先や嗜好性の対象が、単なる他人の受け売りだとなかなか認めてもらえないかもしれません。だって、他人から見たら、それって「本当にあなた自身のやりたいことなの?」って感じてしまうと思うから。

「自分がおもしろいと思えること」を見つけた場合でも、やっぱり「なんで?」「どうして?」という疑問を自分自身の思いに対してぶつけてみることが必要だと思います。そうすることでどうして自分がそれを「おもしろい」と思えるかがヴィヴィッドになっていく。それがさらに行動をともなって、他人にも伝わっていきます。

とにかく、かっこつけてないで、いろいろやってみることだと思います。
間違っててもいいんです。間違いなら他人がちゃんと助けてくれます。
でも、何も見えなければ他人からは助け舟も出せません。拙速でいいんです。とにかく行動をともなうアピールをしてみることが大事ではないでしょうか。

「認めてもらえない」と文句をいうならそれからでも遅くはないでしょう。

  

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