この本を読もうと思ったのは、最近、能を見てみたいなと思いはじめたからです。能を見たいと思ったのは「「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」で紹介された能の謡曲の世界に興味をもったからでした。
お能がいつ、どこで、どうして発生したかと言うことは、おそらくだれにもはっきり言えないと思います。舞踊の歴史は人類とともに古いのです。お能はその長い長い舞踊史をつづるクサリの一部です。(中略)お能はこの多種多様のクサリのなかからいつのまにか生まれ出たのです。ただひとつはっきり言えるのは、「お能は純粋に民族的のところから発生した」ということだけです。白洲正子「お能」
『お能・老木の花』
能の前身は猿楽だといわれることもありますが、実際にはさまざまな舞踊を取り込む形で、足利時代に世阿弥が<おとなの芸術>に仕上げたものです。
世阿弥の時代から600年、能は変わることなく日本の舞台芸術として受け継がれています。
<変わることなく>が可能なのは、能が型を第一にするからなのだそうです。能を舞う(演じるとは言わないそうです)能楽師は、型に忠実であることを第一に考え、芝居のように演じる人物になりきって表現するようなことはしないそうです。無心で型を舞うことではじめて能が表現できる。能楽師は芸術家というより、職人であるという言葉は非常に納得のいくものでした。
お能の型
能には、200番以上ある曲の1つ1つに決まった型があり、それを能楽師の方々は幼少の頃から繰り返し練習し身につけていくそうです。単に「覚える」のではなく「身につける」。
「語彙を自分のものにするためには、言葉を私的な物語につなげることが必要」で<物語は決してありきたりで受け売りの物語ではなく、自分自身の私的な物語でないと、そのなかの言葉を自分のものにすることはできない>と書きましたが、私的な物語とは自分でふだん考えずに使える言葉だったり、身体が覚えた記憶です。
そういうところで、能における<修練の重視>は、僕がこのところずっと関心をもっている、「言葉を身につける」「方法を身につける」ということにもつながってきます。
単純な扇ひとつあける型、それひとつにも全能力がはいっているのです。そのためにたとえ事実は手サグリでしても、ふつう扇を開くとき見るように面の視線は扇の上にあるのです。すべて手サグリ的の行動はカンとも言えます。お能ではこのカンといえるものと修練とのふたつが必要なのです。そしてどちらかと言うと修練のほうが主なのです。白洲正子「お能」
『お能・老木の花』
「身につける」というのは考えなくてもできるようにすることで、芝居のように心を表現するように演じるのとは違い、能が無心で舞われることとも深い関係があるように思います。
世阿弥は精神的なうつくしさ、すなわち幽玄に重きをおきながら、けっしてもとにあるところの物まねをおろそかにはしません。どこまでも物まねあっての幽玄であります。物まねは今のお能の上に型として残っています。その型を確実に練習するという、そのことが、そのことだけが専門家の役目であります。白洲正子「お能」
『お能・老木の花』
結果としての幽玄にも重きを置きつつ、前身の1つである猿楽がもっていた人間の日常の所作の物まねを軽視せずに、それを型として決め、それをひたすら確実な練習によって「身につける」ことで<物まねあっての幽玄>が生まれるのでしょう。
それは個々の能楽師の表現ではなく、能そのものが表現の型を形式化しているから可能なのでしょう。
方法そのものが表現となっているのです。
ただ、その形式化された表現の方法は、単純に言葉にできるものではなく、言葉で覚えられるものではなく、小さな頃からの繰り返しの修練によってのみ「身につける」ことができる方法なのでしょう。
経験と知
そのことをあらわしていると思えるのが、下の引用です。お能をつくった世阿弥はさまざまのことばを残しましたが、けっして「知」には終わりませんでした。経験と同時に知識をもつのはかまいません。しかし経験をもたない、知識だけの芸術家が芸術家として通用しているのはどうかと思います。お能が今まで滅びずに伝わったのは世阿弥の言を守って実地の経験に重きをおいたからであります。白洲正子「お能」
『お能・老木の花』
世阿弥が残した言葉は、すべて経験と結びついている。そして、能は現在まで<実地の経験に重きをおいた>からこそ、600年も経ったいまなお続いているのです。
<知識だけの芸術家が芸術家として通用しているのはどうか>と著者は疑問をもっています。しかし、これは芸術家に限らないのではないかと僕は思います。
知識だけで経験をもたない言葉は、理解語彙とはなっても使用語彙とはなりえません。
またなんとか使用できる語彙となっても、その言葉は含蓄を含むものにはならないのではないでしょうか。
再生と生物の進化
表現というと、僕らはどうしても自分のなかにある思いや考えを表現することだと思っています。そのために言葉や方法などを素材として用いて、内なる気持ちを外に創出すること/アウトプットすることばかりを考えています。しかし、この本を読んで、能というのは言葉や方法の側にある型を単なるアウトプットをつくるための素材として捉えていないのだということがわかります。
むしろ、型そのものに表現が埋め込まれている。能楽師は、内なる何かを演じるために型を覚えるのではなく、すでにあったものを再生する/物まねするために型を身につけます。
能に求められているのはオリジナリティではなく、あくまで再生なのでしょう。それは伊勢神宮が20年ごとの式年遷宮によって再生され続けているのとおなじものだと思います。
僕らはどうもオリジナリティばかりを創造的なものと考えてしまいがちです。しかし、それはきっと違うなと思っていたから、僕はこの本を手に取ったのですが、その思いはいっそう強くなりました。
新しいものを生み出すための方法は決してオリジナリティを追いかける方法だけではないのです。
すでにあるものを再生しようとすること、その物まねのなかにもう1つの創造性があるのだと思っています。その創造性は子が親の形を真似て生まれてくる生物の個体の誕生における創造性とおなじものだと思っています。
そして、そこに突然変異が生じる。
変異が生じるのは物まねのなかにおいてではないでしょうか。
はやく本物の能の舞台を見に行きたいなと思いました。
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