鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち/長町美和子

失礼な話、あんまり期待しないで読みはじめたのですが、とてもおもしろく素敵な本でした。
文章もすごく読みやすいし、写真もきれい。しかも、内容がすごく僕の興味をそそるものでした。

着物地は洋裁のように端切れを裁ち落として捨ててしまうようなもったいないことはしない。(中略)着物は直線裁ちでできているからこそ、そして一定のサイズがあるからこそ、リフォーム、リサイクルが簡単にできる。着る人の身体の凸凹に合わせて立体裁断される洋服だったらこうはいかない。
長町美和子『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』

僕はこの本で読んではじめて知りましたが、着物をつくる際には、あまった部分の生地も切ったりせずに「おはしょり」して内側に縫い込んだりするそうです。だから、体格の違うほかの人用に仕立て直す場合でも<ほどいて洗い張りして縫い直せば>リサイクルできるそうです。古くなっても<染め直したり、痛んだ裾を裁ち落としたりして、蘇らせることができる>そうです。

建物と衣服で異なるモジュール

それが可能なのも、

現代の着物の源流は室町時代の小袖とされているが、この頃までの反物の幅は今よりもひと回り大きく、織手によって、また地域によって寸法もまちまちで、無駄な余り布を出さないように裁つのはとても難しかったという。大工の使う曲尺は、建物をつくるには都合がいいけれど、衣服のモジュールとしてはどうしてもうまく馴染まない、というわけで、ぴったり余りの出ない寸法を探しているうちに、着物の採寸で徐々に使われるようになったのが「鯨尺(鯨のひげでつくられていたらしい)」である。曲尺の一寸は約3センチだが、鯨尺の一寸はそれよりひと回り大きい約3.8センチで、一尺で比べると8センチほどの違いがある。
長町美和子『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』

建物と衣服で異なるモジュールを完成させ、なおかつそれぞれのモジュールにあった計測の道具(建物は曲尺、着物は鯨尺)というのができていたというのが感心しました。
しかも、江戸中期になると、反物の幅自体が鯨尺のモジュールにあわせたものとなり、男ものはくじら一尺(約38センチ)、女ものでくじら九寸五分(約36センチ)となったそうですし、建物のほうも、昨日、紹介した内田繁さんの『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』でも書かれていたように、室町時代以降、部屋に畳が敷き詰められるようになってからは、畳のサイズがモジュールとなり、家にあわせて畳のサイズを決めるのではなく、畳の寸法のモジュールにあわせて家の寸法を決めていくようになったそうです(残念ながらいまはそれがなくなり、畳のサイズもバラバラだし、そもそも畳をつかうことが少なくなっています)。
西洋では、ル・コルビジュエが自身の身体のサイズをベースにしたモデュロールという規格寸法をつくっていますが、それを日本では江戸中期までには完成させていたわけですね。

折り畳む、重ねる、丸める

先の鯨尺もそうですが、日本のモノには、折り畳んだり、重ねたり、丸めたりして、小さくコンパクトにしてしまっておけるものが多いそうです。
屏風や掛け軸、入れ子状になった器や弁当箱、つかうときは多くのものを入れられるのにつかわないときは小さく畳める風呂敷
など。なるほどいわれてみれば、そういうものが多くあります。

それは昨日の「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」でも書いたように、<椅子や机に限らず、そもそも日本の暮らしではものを固定しないということが前提>で、<行事がなくても、その季節の表情を家のなかにも取り込んで楽しむために、さまざまな工夫=飾りをしてきたのが日本の暮らし>だったからなんでしょうね。
つかわないときはコンパクトにしまうことができ、つかうときは広げてちゃんと用途をなすという。そういうしまったり出したりということができるからこそ、<うつろう季節を室内にうつし、人の心にうつしこんでゆく、そういうノウハウを洗練させてきた文化>を育むことができたのでしょう。

屏風絵や日本建築の水平に開ける空間と構図

すこし長くなりますが、以下の文章にそのあたりが要約されていると思いますので引用します。

折り畳み式の六曲屏風ができると、それまで一扇ずつ別々に縁取られていた絵もつなげて描けるようになり、構図も一気にダイナミックになっていく。掛け軸が縦の奥行きを感じさせる世界だとすれば、屏風絵は水平にどこまでも広がる世界だ。水平に開ける空間と構図というのは日本の建築の特徴でもあるが、座敷から縁側越しに眺める庭の風景と同じで、横画面というのは日本人の感覚に馴染みやすかったに違いない。絵巻物にしても、襖絵にしても、右から左へとあいまいに時間と空間を結びどこまでも水平につながっていくさまは、1つのフレームの中に1つの題材をきっちり描く欧米人からしてみれば実に興味深いことだろう。
長町美和子『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』

この水平展開される視線の流れ、あいまいに時間と空間を結んで展開される独特の物語感覚というのが、「縦書き・横書き」で書いたような縦書きで横に視線が流れていく文章の記載の仕方にもつながっているのでしょう。

先のモジュールの話もそうですが、日本のデザインというのはきっと自分たち自身を含む自然というものに真摯に向かい合ったうえで、考えられ形づくられていたものだという気がします。

それに比べると、いまのユーザー中心のデザインなんて、まったくの子どもだましにしか思えません。

使いやすさよりも、上質さを追求してもよいのでは

iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」では、<人間をラクにさせるばかりが道具じゃないでしょう。自転車や楽器のように練習しないと、うまく使いこなせないような方向性についてもきちんと考える必要があるのではないかと思っています。>と書きましたが、いくら人びとの生活を観察してその行動からデザインのヒントを得る、ユーザー中心のデザインでも、もともとの観察対象である生活自体が携帯電話やiPodなどを使うような記号化された不自然な行動であるのだとすれば、それだけを観察しても意味はありません。

内田繁さんが言っているように、<面倒を避けると、気持ちよさも少し失います>なのであって、もののデザインそのものに人を働かせたり、つかい方を苦労して覚えさせ、道具を「自分のものにする」ような設計が施されている必要があるのではないかと思うのです。身体にぴったりあう立体裁断の服や形の決まったバッグではなく、大きさの異なる身体もものも包み込めるような着物や風呂敷のような形であいまいさを包含できるデザイン、フレームのなかに完成された物語を描く西洋絵画ではなく、あいまいさを残した筋道で観る者/読む者の心にまかせた部分を残す屏風絵や絵巻物のようなデザイン。携帯電話やPCではなく、筆のようにつかう人の創造性を生み出すデザイン。

さまざまに使い回しがきく、ぱたぱたと形が変化する、入れ替えて使える、畳める、丸められる、重ねられる・・・・・、日本の住まいや道具には、コンパクトに暮らしを納める知恵がたくさん詰まっている。建築もモノも重装備することを良しとせず、質の高いものほど軽やかで華奢である。
長町美和子『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』

軽やかで華奢な質の高さを求めてもいいのではないかと思うのです。
使いやすさとかうつつをぬかして、本当の上質さを忘れてるような気がします。
それは日本人としてはもったいないんじゃないでしょうか。
そう感じさせる魅力ある品々がこの本では紹介されています。

日本型ユーザー中心のデザイン

ドゥルーズ/ガタリは『アンチ・オイディプス』で「欲望する機械」という概念で、欲望と機械(テクノロジー)がぴったり重なって切り離せなくなっている現代社会の欲望を描いてみせましたが、それを再度切り離して、人間や自然にあったものをつくり、それをよいと感じさせるようにするには、原研哉さんが『なぜデザインなのか。』でも言っているような「欲望のエデュケーション」をデザインによって行っていくのではないかと思います。
そして、そのヒントが既存のユーザー中心のデザインを超えた、古来の日本のデザイン・ものづくりの方法にあると感じていて、それらを盛り込んだ形での日本型ユーザー中心のデザインというのを確立できればと思うのです。

食べるもの、着るもの、住まい、すべては「日本」という風土の中で生きやすいように工夫され、長い年月を経て練られ、今の形にたどりついている。そしてその根本には、四季折々の暮らしを真摯に見つめた日本人のまなざしがあった、暮らしを充実させるために生み出されたモノには、形にも素材の使い方にも、現代と比べ物にならないほどの確かさが宿っていた。
長町美和子『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』

もういい加減に、紅葉のおもしろさも月見の喜びもわからないような西洋人の感覚につきあうのはよしてもいい頃じゃないかと思います。紅葉も月見も花の美しさもわからない程度の人びとのユーザーエクスペリエンス以上のものを、日本人は知っていたはずですし、それを<おもてなし>などという形で表現する作法も知っていたはずです。

そんな繊細さのかけらもない人たちのデザインの方法に学ぶのはそこそこにしておいて、<暮らしを充実させるため>のデザインの方法を、昔の日本のものづくりから学ぶほうが有意義なのではないかと感じます。

それは決して日本に閉じこもるということではないでしょう。海外の人が日本に求めているものも結局そういうことでしょう。
もらうばっかりじゃなくて、そろそろ海外に自分たちの文化をきちんと発信していってもいいのではないかと思います。それも昔のものをそのまま発信するのではなく、昔の方法から学んだいまの方法でつくりだしたものを発信するという形で。



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