個別のもののデザインではなく、あるカテゴリーのもののデザインの変遷を考える場合、ヘンリ・ペトロスキが『失敗学―デザイン工学のパラドクス』で書いているような、失敗から学ぶ積み重ねによってデザインが改善・洗練されていくということがあり、何よりその改善・洗練はその時代の人びとの生活にフィットしていくという方法でよくなっていきます。
個別のものの完成度としてではなく、カテゴリー単位でのデザインの意味を読み解こうとする場合、ある程度の歴史を重ねるうえでつくられてきたものの形について考えることは、いまのデザインを考えるうえでも非常に有効だと感じています。
どこにでもすわれる空間
以前、『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』という本も紹介しましたが、内田繁さんの仕事にも同じようなものを感じます。椅子は、座るという機能が限定されていて、またその存在そのものがほかの場所には座りにくいという制約にもなっています。内田繁『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』
アフォーダンスについて説明する際にはよく「椅子はすわることをアフォードする」などと言ったりしますが、ここで内田さんは見事にその価値を反転させています。椅子はすわるという機能に限定しまう、と。そして、それ以外の場所にすわることをむずかしくしている、と。
もちろん、ここで内田さんが念頭においているのは、畳や床のうえに直にすわっていた日本の暮らしです。
家を清潔で、浄化された空間であると感じ、靴を脱いではだしで家にあがり、家のなかではどこにでもすわる暮らし。いまでこそ、椅子の暮らしが浸透してきて、直接床にすわって生活するということが減ってきているのかもしれませんが、それでも相変わらず家にはいるときには靴を脱ぐという習慣だけは残っています。
そもそも椅子にすわらず、直接床にすわりこんで生活すれば、視線は自然と低くなります。すわる姿勢が異なり、目線が低くなれば、そうした暮らしを取り囲むもののデザインも違ってきます。床が土足の場ではなく、清潔なものだとすれば、床に直接置くことのできるものの種類もだんぜん増えます。また、椅子のある場所に固定されず、どこでもすわることができるということは、椅子とセットで考えられる机なども移動可能で、折り畳みができるようなものが喜ばれます。ちゃぶ台や脚のついたお膳などが日本にはありますよね。
暮らしが違えば、ものの形は大きく異なります。
このあたりは『なぜデザインなのか。』で、原研哉さんと阿部雅世さんも問題にしているところですね。
ものを固定しない、変化させる
椅子や机に限らず、そもそも日本の暮らしではものを固定しないということが前提でした。高温多湿な夏のある日本では、ものを固定してしまうと、ダメになりやすいということもありました。また、夏だけでなく自然が多様な表情をみせる四季があり、夏には夏の、冬には冬の暮らしが求められましたし、春と秋には色とりどりの自然の表情を楽しみました。家そのものが衣替えをしていたのがかつての日本の暮らしです。
つねに変化するのが当たり前だと感じ、禅の思想とも重なり合って、人びとの暮らしの基本的な部分にも"無常=常ならむ"ことが浸透していました。「「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」でも書いたとおりですね。
日本の家で固定されていたものとしては、柱と屋根と床しかなかったのです。
いまでは家という建物の一部と考えられている襖や障子、畳にしても、必要なときに必要なところに設置する家具でした。
引きちがい戸は鎌倉時代の発明だそうです。
畳をいまのように部屋いっぱいに敷き詰めるようになったのも室町時代の書院建築からで、それまでは身分が高い人が座る場所などだけに敷いていたのです。
日本建築に壁ができたのは、それまで書院造の建物の一部を毛氈などで囲った仮説的な場をつくって行われていた茶の湯の空間を、千利休が壁で囲われた茶室に移し変えたことからはじまっていると内田さんは見ています。
壁という絶対的な仕切りではなく、可動式の暖簾や障子などの弱い仕切りを用いて、日本人は空間を物理的にではなく認識的にとらえてきたのです。
また、壁ができても、軒や縁側など、外と内をあいまいにつなぐ空間が日本建築には見られました。
飾ることで季節を感じる日本の暮らし
家のなかのものを固定しない日本の暮らしでは、季節を感じさせるさまざまな行事があり、行事ごとに家に普段のケの状態とは違う、ハレの装いを施していました。正月が近づくと母が棚に葉ボタンを飾り、それを見て、子ども心に正月が来るんだと思った経験があります。儀礼の力は、繰り返される力でもあります。繰り返されることで、われわれは「とき」の到来を感じるわけです。内田繁『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』
また、行事がなくても、その季節の表情を家のなかにも取り込んで楽しむために、さまざまな工夫=飾りをしてきたのが日本の暮らしです。
うつろう季節を室内にうつし、人の心にうつしこんでゆく、そういうノウハウを洗練させてきた文化です。それが飾るということの基本にあります。内田繁『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』
「うつろい」「うつし」「うつわ」です。「脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎」でも書いたとおり、
うつなる器である依り代に神は音連れます。音を連れてやってきます。音は情報です。
また神があらわれることを影向(ようごう)するともいいますが、この影は実体に光があたって地面などに落ちる影ではなく、面影としての影です。つまり、人が環境のなかに感じとる情報です。
日本人は、自然の変化のなかに神の訪れ=音連れ=影向=情報を感じ取りました。八百万の神です。
ボキャブラリが少なければ暮らしそのものがままならない
しかし、ものを固定した生活をしている僕らはそういう季節の変化を暮らしに取り入れるということも少なくなってきています。現代は面倒を避けすぎています。面倒なことはまた、それをやると気持ちのいいことでもあります。面倒を避けると、気持ちよさも少し失います。内田繁『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』
それでも、僕らはいまだに桜や紅葉に胸躍らせる心情をもっています。ヨーロッパの人たちに聞くと、なんで毎年紅葉するのにいちいちそんなに騒ぎ立てる必要があるのか?ということになるようです。たぶん、その答えは、そのたびに家の衣替えという面倒なこともできて気持ちいいからなんでしょうね。
でも、僕らもそういう気持ちよさをだんだん忘れかけているのかもしれません。
住空間から床の間がなくなってしまった現在、意識的に飾りの場所をつくらなくてはなりません。そこを日々お母さんが変化させていくときの振る舞いや、飾られたものは、子どもたちにかけがえのない刺激を与えているはずです。内田繁『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』
基本的な季節のうつろい、時の流れを感じにくくなっている現代の日本人に、「時は金なり」とか「スケジュールや時間を守る」ことが大事だといっても、頭ではわかっても、身体でそれを理解するのはむずかしいのではないかなと感じています。
かといって、西洋的な時間感覚を十分身体で覚えることができたのかというとあやしいのですから、ますます僕らは時間間隔そのものを失ってきているのではないかと感じます。
なによりおそろしいのは、僕たち自身が「時間感覚を失っている」ことに無自覚なことです。
内田<見えないものを見る力が失われてしまったのです。見えないことを見る喜びは、知的で深い喜びでした>と書いていますが、この見えないもののなかには「時間感覚」もあると思います。
また、「「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・」で書いた「距離感」「関係性を表現する言葉そのものやその文脈」も<見えないものを見る力>の内に含まれていると思います。つまり、見えないものを言葉として表現するための、その言葉そのものを失ってしまっているのだと思います。
言葉そのものが力です。
言葉がなければ関係性は見えないし、距離感がつかめない。
言葉の力を過小評価している傾向がありますが、「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない」で書いたのといっしょで、ボキャブラリが少なければ暮らしそのものがままならないのだと思います。
暮らしのなかのデザインを見失ってしまったことと、関係性や距離感、時間感覚などをとらえる言葉を失ってしまっていることには、つよい連関があるのではないかと僕は思っています。
この続きはまた別の機会にしましょう。
関連エントリー
- 普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁
- 失敗学―デザイン工学のパラドクス/ヘンリ・ペトロスキ
- なぜデザインなのか。/原研哉、阿部雅世
- 「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一
- 脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎
- 縦書き・横書き
- 「間」のデザイン
- 「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一
- 「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・
- ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない
この記事へのコメント