フラジャイル 弱さからの出発/松岡正剛

僕らは普段やたらとほとんど根拠もないままに、何かが役に立つとか立たないとか、勝ち組だとか負け組だとか、あれは間違ってるとか悪いとか、自分はダメだとか弱い人間だとか、そんなことばかりを気にして生きています。そして、いつでも役に立つほう、正しいほう、強いほう、勝ち残ったほうをほとんど無条件によいものだと信じています。知識を得るのにも、仕事をするのにも、量より質だとか信じているのか、ほとんど独断的ともいえる"選択と集中"とやらでみずからが関わる領域を狭めています

一方、生物進化論の分野でも、自然淘汰を核とするダーウィニズムが幅を利かせ、変化する環境に適応した種が生き残りつづけることで進化が進んできたことを示唆しています。環境において強さをもつものが生き残ってきたとでもいうように。
そこで止めておけばいいものを、人間は自然淘汰のダーウィニズムを社会組織論にも拡張してしまいます。強い組織、環境に適応できた組織だけが持続可能性をもつかのように。

強いものが弱いものを虐げ、弱いものが強いものに反抗するという図式も一見あるように見えます。しかし、その強さと弱さは本物なのか。いや、それ以前に強いとか弱いとかというのはいったい何なのか。僕らがほとんど無条件に受け入れがちな強さ/弱さの上下関係は果たしてそのまま受け入れるのが正しいのか。

そんなことを考えさせる一冊が、この松岡正剛さんが"弱さ"に焦点をあてた『フラジャイル 弱さからの出発』。
「壊れ物注意!」を意味するステッカーに見られるこの言葉をタイトルにした一冊は、

  • Q.劣等感は自分が劣っているという自覚から生まれるのか?
  • Q.強さと弱さを分ける「自分」とはいったい何者なのか?
  • Q.強さと弱さの境界を渡るには?
  • Q.強さと弱さを分ける境界とは?それはどんな場所なのか?
  • Q.弱い場所にいた人たちはどうしたのか?
  • Q.弱いとはいったい何なのか?

などの疑問に回答を与えてくれています。

Q.劣等感は自分が劣っているという自覚から生まれるのか?

松岡さんは劣等感が生まれる背景に「まさかの葛藤」と呼ぶ一連の逡巡があることを想定しています。

まず、人は誰だって劣っているところはもっています。しかし、それがそのまま劣等感に結びつくのではありません。むしろ、劣っているところをもっていても<当人はそれとは逆に、いつもひょっとしたらうまくいくかもしれない>という風に思っていたりします。これがスタート地点。

そして、この種の人は<いろいろな場面のなかで自分が活躍する姿を想定しすぎて>しまい、<ついつい気持が事前に高揚し、あれこれの"強い場面"を空想しながらふやすことに>なります。<いろいろの「ひょっとしたら」や「まさか」が渦巻>きます。

しかし、現実にはその「ひょっとしたら」が容易に「まさか」に裏返り、<事態の進捗がぴたりと停止>し、<凍りつく時間>が訪れます。<いろいろの「やっぱり」が次々に重なり、体もこわばって>きます。<「しまった、やっぱり>という悔恨の感情が押し寄せ>、それが過去に何度も体験した<"あの恥辱"に直結してしまう>と、もうおしまい。

実際のところはその直後になんとなく事態が好転してしまうことだっていくらでもあるのだが、それはなかなか感情の記憶に残らず、事態が氷のように停滞してしまったことだけが、自分の逡巡にむすびつけられる。かくしてただひたすら弱い場面だけが貼りつくように記憶にのこるのだ。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

劣等感は、むしろ、"強さ"を信じる自分に対する「まさかの葛藤」のなかで生じています。

このあと、松岡さんは葛藤の生物学的な意味を探り、ネオテニー(幼形成熟、幼態成熟)にまでたどり着きます。

弱い存在である幼児のまま、大人になること。1920年にはL・ボルクが、チンパンジーの幼形が人類と似ているとして「人類ネオテニー説」を提唱しています。
それはいわゆるピーターパン・シンドロームと呼ばれるような意味での「いつまでも子どもでいたい=大人にはなりたくない」とは異なります。そうではなく、生物として幼形のままを選択すること=弱さを選択することで、なんらかのメリットを得ようとするものではないか、と松岡さんは考えます。

毛のないサル=幼形のサルとしての人間の大人は、いったいなぜネオテニーを進化の過程で選択したのか?
ここには強いものが生き残るというダーウィニズムとの矛盾があるのではないか?

Q.強さと弱さを分ける「自分」とはいったい何者なのか?

木から降り二本足で立ち上がった裸のサルは、高くなった目線、より立体視に優れた顔の前面に並行して並んだ目をもつことで、開けた草原で距離感覚や場所の概念をもつことができるようになりました。いまいる場所から遠く離れた場所を見ることができるようになり、「ここ」と「むこう」の違いがわかるようになったのです。

そして、

「むこう」にエデンの園やユートピアや浄土を想定したぶん、「ここ」には欲望の拠点と地上の国家をつくることになっていったのである。毛皮を失った弱々しい"裸のサル"が、自分の体力に似合わない強い場所を「ここ」につくろうとしたこと、「ここ」に軍事と生活と愛情を集約しようとしたこと、いっさいの情報文化史はここにはじまったのである。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

しかし、いくら強い場所をつくろうとしても、人間のもともとの体はあまりに弱々しすぎました。普段は気づかなくても、弱さは病気のさいにふと頭を持ち上げてきます。

松岡さんは自身の手術後の体験を語ることで、いかに「自分」と身体が本来チグハグなものであるかを確認しています。

こうなると一日一日が格闘と発見である。
まず、自分の体にしまわれていた身体動作感覚の記憶を蘇らせることが必要だ。そんなふうに日々を送ってこなかった者には、こうしたこともけっこうな大冒険が、たんなる寝返りもたんなる歩行も、いちいちがとても異様な不出来のバイオロボットを見るようなものだなのだ。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

手術後、松岡さんは寝返りも普段の歩行もまともにできなくなったそうです。
そして、リハビリによって徐々に<身体動作感覚の記憶を蘇らせ>ていきました。

しかし、そんな身体と心のちぐはぐさを身をもって体験するなかで、

結局、われわれは自分を「一人」とおもいこみすぎたのである。きっとこれこそが「近代」が中世の魔術に代わって平均的市民のためにつくりあげた魔術というものだった。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

という考えにたどり着きます。
そして、

われわれの体が皮膚で閉じていると考えないほうがよい。体表はたんに輪郭であって、われわれの体にひそむエネルギーは体表なんぞでは閉じきれない。いつもどこかにはみ出している。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

と考えるようになります。
体表という輪郭を人は本来もっと自由に「渡る」ことができるのです。

Q.強さと弱さの境界を渡るには?

人間は、本来日常的にも、弱い身体から強い外の場所への「渡り」を行っています。しかし、それは「平均的市民のためにつくりあげた魔術」によって普段は気づかないようになってしまっています。

それでも、

「ふるまい」は自己の他者への自由をもたらしてきた。われわれはこれを社会生活における他人へのサービスだとおもいこんでいるけれど、そうではない。ヒトは、こうした「ふるまい」を抜きにしては生活できないような社会進化をとげているのかもしれず、それを通して何かを伝播させ、授受してきたのだと考えるべきなのだ。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

ふるまいを通じたコミュニケーションで、人は容易に体表という輪郭を超えて、身体の外に染み出しているのでしょう。
そして、身体の輪郭を「渡る」だけでなく、外の空間にある境界も日常的に越えています。

私はこの十年ほどは、近所の氏神とともに赤坂の山王日枝神社に初詣をしている。そこでは茅輪くぐりがある。チガヤを大きな輪にし、これを参拝客たちが次々にくぐる。くぐるときになんとなく気分が変わる。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

初詣などのさまざまな年中行事によって、人間はさまざまな境界を越えてきたのでしょう。しかし、最近では昔から繰り返されてきた行事をおろそかにすることで、境界を越えることができなくなっています。
それにより、いまここに閉じ込められた僕らは「「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」や「脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎」で書いたように、浄土と穢土の区別を失い、<どんな失敗も認めなくなって>しまいました。
<彼岸に行く足腰がたりない>現代人は、そんなに窮屈な場所に自分を閉じ込めることでしか生きていけなくなってしまっているようです。
しかし、そんな大人ぶった態度は、幼児形の弱い身体を選びながら、「ふるまい」を通じて外部とつながることで社会生活が可能なよう進化してきたヒトの進化とは相反する方向へ進んでいるのではないかと感じます。

Q.強さと弱さを分ける境界とは?それはどんな場所なのか?

いっぽう、松岡さんは人がほかの人びとの弱点や欠陥を昔から排除してきたことにも言及しています。

疫病や業病をもつ人は、ムラから排除されて、特別な場所・存在として区別されます。

たとえば黒田日出男の推理で有名な『一遍上人総伝』第三巻の供養の場面には、4つの集団がそれぞれ輪になって共食している姿が克明に描かれている。4つの輪は、時衆グループ、乞食僧グループ、非人グループ、不具者グループの輪である。ところが、この4つの輪からさえ排除され、そのさらに外側で孤立しているのが癩病のグループとして描かれている。グループはいわば「浄」から「穢」にむかって区分けされ、その最も穢れた存在として癩者たちが位置づけられているわけである。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

そして、こうした排除されたものたちには弱い者たちが集まる場所に一同に集められ管理されることになります。

しかし、これらの者は単に排除されただけでなく、よろよろ歩くもの、片足歩行のものというイメージをもったものとして、多くの奇形を特徴とする神と結び付けられます。
イザナギとイザナミが最初に産んだのは足が萎えたヒルコでした。イザナギとイザナミはヒルコを舟で流したのでした。ヒルコは後に西宮神社のエビス神になったといわれています。
山田の案山子も一本足です。山田の案山子にはれっきとした神名、ヤマダノソホドがあります。

癩者や不具者や乞食には「不浄」の刻印がされているとともに、その逆に「浄」の属性が付与されていたのかもしれないということになる。そこには二重の異化作用が、ロラン・バルトの言葉でいえば神話作用というものがはたらいたのである。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』


Q.弱い場所にいた人たちはどうしたのか?

ヒルコが舟で流されたのとおなじように、弱い者たちは境界の外へ追いやられました。境界には道祖神、境界神が立ち、悪疫が境界のなかに入ってこないよう守っていました。

疫病や難病だけではなかった。そのほか多くの弱者の兆候をもった者たちを追放し排除するための祭祀が境界神の祭祀の裏で進行した。節分として知られる追儺の行事にもそんなしくみが隠れていた。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

弱者たちは境界の外に出され、まさにアウトサイダー化するのです。
しかし、外に出された弱者たちはそのまま弱いままとどまったのではなかったようです。
弱い者たちがあつまる外の世界にもネットワークが生まれ、そのネットワークを統率するものが生まれたようです。
そして、彼らの内から、境界の外から内へと訪れる者たちが生まれてきます。

芸能の多くは「辻」と「道」と「門」とで発達してきたという節がある。(中略)「辻」でやる辻芸から「道」を流す大道芸が派生し、その大道芸から家々の「門」にとどまる門付芸がおこったというものだ。辻→道→門という順なのだ。それだけでなく、その三段階の順序の発展がそのまま門から家の中にもちこまれ、それが「庭」に入って中庭の芝居となり(芝に坐ったから芝居といった)、さらに「奥」の座敷に入っていわゆる座敷芸になったともいう。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

外から訪れる=音連れる人たち。「不浄」でありつつ「浄」の属性もった客人=マレビト。
能も歌舞伎もそのような中からうまれた芸能です。

弱者は外に流されつつも、外にもちゃんと世界があったのが過去の世界なのでしょう。それは<どんな失敗も認めなくなっている>現代の排除とは意味が違います。それはあくまで「ここ」から「むこう」に追いやることであり、ちゃんと「むこう」が想定されていたのです。その「むこう」は「不浄」の者たちを追いやる世界でありながら「浄土」でもあったのです。


Q.弱いとはいったい何なのか?

松岡さんは自身の記憶に残った3つの事件について語っています。

1つ目は、全盲の叔父がどこにも見えない遠くの風鈴の音を聞き分けた記憶。2つ目は、全聾の近所のおばさんが手をかざしてステレオの音を聴いたシーン。そして、3つ目は歩道橋のさきに見えた素晴らしいダンサーが近づくと実は重度の障害者がこちらに歩いてきているのだということに凍りついた記憶。

耳をすませば遠い風鈴が聞こえるかもしれず、手をかざせばステレオの音を聞けるかもしれず、歩くときは全身をフルにつかって歩くのだということを、われわれはどんなときにも、どんなところでも絶対に教わってこなかった。われわれが教わってきたことは、民主的であれということ、泣きごとを言わないこと、戦いは正々堂々とすること、付和雷同しないこと、個性を磨くこと、男は黙ってサッポロビールを飲むこと、ただそれだけである。そのうちに、われわれはひどく感じにくい人間になってしまったのだ。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

強くあろうとして、弱さを内から排除しつづけてきたあげく、<われわれはひどく感じにくい人間になってしまった>。
<小さい頃は 神様がいて 不思議に夢を かなえてくれた>のに、感じにくい人間になって<やさしい気持ちで>目覚めることがなくなったいまはもう<大人になっても 奇蹟は起こるよ>とは言えなくなってしまっています。
トトロも、ねこバスも見えなくなってしまっています。

遠い風鈴はいまなお鳴っているはずなのである。ただし、その声や音は時を追うごとにまことにフラジャイルになっている。よほどにその「弱音」に耳を傾ける必要がある。いや、もはや大声によるプロパガンダを拒否し、あて小さな声に耳を傾ける時期が来ているようにおもわれる。
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』

<もはや大声によるプロパガンダを拒否し、あて小さな声に耳を傾ける時期が来ている>。

小さな声が僕らにはまだ聞こえるのでしょうか。



関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック