脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎

この本で松岡正剛さんと茂木健一郎さんは二人でとんでもないキャッチボールをしている。おそろしく遠く離れたところから来るとんでもない変化球をおたがい難なく受け取りあっています。まったくアクロバティックな対談集です。

その本のなかで茂木健一郎さんが「文脈から外れた活動がなければ、ひらめきもないし、創造性もない」と言うとき、僕は以前書いた「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない」あたりの話を思い出しつつ、とにかく知識はいくらあっても足りるということはないもんだなと、心から思います。

情報や言葉に対する関心の弱さ

ある方が「Webをやってる人は勉強熱心」と言ってくれましたが、そのなかにいる僕としては、いやいやまだまだぜんぜん足りないと感じています。

とにかく最近不満に思うのは、Webをやってる人が「情報」や「言葉」というものに対して不勉強なことです。情報を入れる器をつくるのが仕事であるはずなのに、内容物である情報や言葉というものに対する関心が弱すぎるように感じるのです。何よりもったいないなって思うのです。

それはどう文章を書いたらWebでうまく伝わるかとかそういうことではなく、情報というのはそもそも生命にとって何なのかとか、日本語で書かれた文章というものは果たしてセマンティックWebが考えているような統語論中心の意味論でセマンティックになりえるのか、そうではなく語用論のようなよりコンテキスト重視の発想が必要ではないのかとか、そういうことが考えられるレベルで、情報や言葉というものに関心をもち、そういうことを考えるための知識を積極的に取り入れる活動をしているかということです。
みんながちゃんと興味をもっていろいろ知識をもち考えれば、すごいことになるはずなのに、どうもそういう方向に進んでいないことがもったいないって思ってしまいます。
とにかく、Webが企業のマーケティングツールという方向にばかり偏ってしまっているように思えてもったいない。
ビジネス価値を生み出すことを考えるにしても、いったん、ビジネス視点から離れてみるほうが創造性は発揮しやすいはずです。
「文脈から外れた活動がなければ、ひらめきもないし、創造性もない」わけですから。

茂木さんが「現代人は足腰が弱い気がする」といい、松岡さんが「彼岸に行く足腰がたりない」と応えるのを読むとき、自分でみずからに負荷をかけて足腰を鍛えようという心意気のなさを、知識に対して貪欲となり、次々にわからないことはわかるようにしてやろうという姿勢の欠如を、彼岸へ渡る足腰の弱さとして感じます。
めんどくさがらずに、ちょっと先へ足を伸ばしてみればいいだけのことなんですけどね。
余剰がないところには創造性は生まれません。

情報をいれる器としてのWeb

その弱さが自分たちが得意な器づくりにだけのことしか考えず、そのちょっと離れたところに足を伸ばすことさえ、自分で行き先を考えたり、歩いたりせずにに済むようなガイド付きタクシーみたいなものがないと一歩も先に進めなくしています。

器にいれる情報、言葉に対して、すこしでも多くの知識を取り入れようという姿勢が見えにくいんです。

たとえば「紙とWebが違う」というとき、その言葉で紙のデザインについても勉強してよいところは取り入れようとするならまだしも、その言葉を発して、紙のデザインのわるいところを否定的に見るだけなら、時間がもったいないと思います。

松岡 うつろいというのは、以降、変化、変転、転移のことです。語源に「うつ」という言葉が使われています。(中略)うつろ(空洞)、うつほ(空穂)、うつせみ(空蝉)、うつわ(器)、いずれも「うつ」の同根ボキャブラリーです。「うつろい」はこの「うつ」から派生した。つまり、空っぽのところから何かが移ろい出てくることが「うつろい」で、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように面影のごとく浮かんで見えることをあらわしています。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

神社のもとになった神籬(ひもろぎ)などの依り代も神が訪れるための空っぽの器です。

うつなる器である依り代に神は音連れます。音を連れてやってきます。音は情報です。
また神があらわれることを影向(ようごう)するともいいますが、この影は実体に光があたって地面などに落ちる影ではなく、面影としての影です。つまり、人が環境のなかに感じとる情報です。

器というのはそもそも情報がはいってきて、また出て行く依り代です
原研哉さんが『なぜデザインなのか。』のなかで、道具の始原は棍棒と器の2種類があるといっていましたが、器のほうはそもそもが人間にとって価値のある情報(神、水、食物など)をいれるための道具だったはずです。
その有り難いものをいれる器をつくっている人が、その中身について知らないというのはあんまりです。
利休が茶を知らなければ、長次郎に楽茶碗を焼かせることはできなかったはずです。

器=ハコだけをきれいにつくって中身やその利用についての考えがなさすぎるのです。
それはかつて地方自治体がやたらときれいで現代的な多目的ホールを各地で量産して、結局その使い道がお荷物になってしまっているのと変わらない末路をたどるのではないかと危惧しています。
最近、「デザインへの理解を深める」や「続・デザインへの理解を深める:デザインの業界分類について」で<デザインとは、どうつくるかではなく、どう使われるかを考えること>といったことを考えているのは、こうした文脈からでもあります。

器=ハコのつくりかたばかりじゃなく、もうすこしなかに入れる情報だとか言葉だとか、それを利用して何をするのか、何ができるのかということをもっと考えてもいいのではないか、と。

ですが、それには勉強が足りなさすぎて、そこに何かしらの文脈もなくて、だから、結局、「文脈から外れた活動がなければ、ひらめきもないし、創造性もない」という具合になってしまっているような気がします。

物真似からオリジナルをつくる

何より気になるのは、ほとんどが外来の技術やデザイン方法の模倣だけで済ませてしまっていて、日本語や日本人の生活の独自性をみたWeb技術やWebデザイン方法を確立していこうという意志がほとんどどこにも見当たらないことです。
これがとにかくもったいない。

もちろん、真似るのがわるいといっているのではありません。外来のものを真似るのは日本が昔から得意としてきたことです。
でも、かつては真似るだけでなくそこからオリジナルのものをつくったのが日本です
漢字から仮名を生み出し、仏教も茶も庭も日本オリジナルをつくった。カレーライス、スパゲティ・ナポリタン、あんぱん、なんでもそうです。

でも、どうしてWebの場合、そういう方向の努力がないのか?
それがこのところの僕の不満です。
不満なので実はひそかに自分だけはそれに取り組もうとしています。
その成果は春頃にはまず第一弾の結果がお見せできると思いますが、それに関してはまた詳しいことが発表できそうになったら、お知らせします。

日本の情報文化の多重性

日本語における情報文化の特徴を考えるにあたっては、松岡さんのこんな言葉からスタートするのもいいかもしれません。

松岡 素養は漢籍をベースにしたのです。江戸時代の寺子屋まで「四書五経」をもとに教えたのですから。つまり、意味の世界は漢文読みなのです。けれどもボーカリゼーションとしては日本語の読み下しとなっている。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

文字文化のないところに漢字を輸入して独自の文字文化をつくった日本は、それ以来、二重の言語体系をかさねあわせてもつことになりました。
アメと聞いた場合、雨も飴も天も思い浮かべるように、ナガメとあれば、眺めと長雨の両方に意味のリンクが伸びてしまうように、コトが事であり言であるように、日本語をあつかう人はつねに二重さらには多重の意味構造にさらされています
こんな言語はほかにあまりないはずです。

このような日本の情報文化において、統語論的な意味論やキーワード検索による発想では情報を扱いきれないと思うのです。
検索でもよりコンテキストに依存したものが必要になると思いますし、意味論を論じる場合もやはり語用論だったり、エスノメソドロジーやアフォーダンスのような脳と環境の相互作用のようなものを想定しつつ、そこに何らかの意味のアーキタイプを想定していかないと、日本語の情報というのは扱えないだろうと思っています。

それには、物真似から先に一歩先に進んで、日本オリジナルの情報システム論だとか、情報デザインの方法を模索していかないといけないと思うのです。松岡さんが『日本数寄』で書いているような、情報システムとしての能、茶の湯、ヒモロギのようなことを踏まえつつ。

利休もいうように守離破です。
物真似である守から一歩離れて、さらにその先の破を目指していかなきゃって思うのは僕だけでしょうか?

どんな失敗も認めなくなっている

と、そんなことを考えさせらたこの本ですが、気になるところはそれほど山ほどあって、とてもここでは伝え切れません。

そのなかで松岡さんのこんな言葉はすごく考えさせられるものです。

松岡 浄土を失うということは、穢土もないということです。汚れというものを排除し、すべてを消毒してしまったということです。これはまずいよね。ヘタをするとどんなレベルの異質性も排除していくことになる。ヤクザも温泉疑惑も食品事故も、なんでも一緒の「害」にしてしまうでしょう。たとえば、高校で、授業時間がちょっとでも不足したらだめ、スカートの丈がすこしでも短かったらだめというふうになって、とにかくとどこにも穢土がない。どんな失敗も認めなくなっている。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」で書いたこととつながることです。ブログでもなんでもかんでも炎上させるだけ炎上させておいて、逃げ場をなくしてしまいます。
アノマリーなものを一切受け入れようとしない姿勢は、まさに松岡さんがいうように「彼岸に行く足腰がたりない」からこそ此岸を焼畑のように燃やして浄化しようとでもしているかと考えたくもなります。
彼岸に渡る足腰を鍛えることはここでもとても必要に感じられます。

ここでももったいないなと思うのは、気づいたことがあったら、どうしてそれをマイナスのほうに考えを膨らませるばかり、プラスのほうにもっていく方法はないかと思考しないのか、ということです。

考えが浮かばないとか、アイデアが出ないとか言ってる人の多くは、せっかくの気づきをプラスのアイデアに変換しようとするスキルを身につけてないから、単に気づきを不満や批判で終わらせちゃうから機会を失ってしまっているのです。そして、そのことに気づかないから、どうして自分にアイデアやいい考えが浮かばないのかがわからないままになってしまう。
いい問題が出されているのにそれを解こうとせず文句ばっかり言ってるのです。それでは創造的な答えなんて生まれるチャンスはありません。そういう偶然の気づきによるチャンスを自ら放棄してるのですから、セレンディピティは生まれません。

浄土と穢土、強さを弱さと分ける視点とはそういうものです。それを全部ダメ出しして浄化しようなんておかしなことをやってるから、創造性が失われていくのです。

この件については、あとで書評を書こうと思っている松岡さんの『フラジャイル 弱さからの出発』でもあらためて書こうと思います。

ライトサイズ

あと松岡さんの「ライトサイズ」という考え方にも、うーんと考えさせられるものがありました。

「組織というものは、生物学的にも社会的にも、それぞれのライトサイズがあると思っている」と、松岡さんは生物学のダーウィニズムや、国家や企業に関する社会組織進化論における「ともかく大きいほうがいい」といった発想、内村鑑三の小国主義などの視野に入れつつ言っているのですが、驚嘆すべきは次の洞察です。

松岡 ライトサイズで限定された組織の中で、かつ始源の「もどき」が生きるような「うつし」を許容する、そういう有機的な単位がもう少しあったほうがいいと思うし、それにもうちょっと目を向けたほうがいいと思うんですね。「うつし」というのはとっても不思議ですよ。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

ここでいう「もどき」は本体を真似つつちょっと別のものになることで、松岡さんは神の「もどき」をすることが日本の芸能の原型(アーキタイプ)だといっています。

その「もどき」による「うつし」をライトサイズ限定の組織のなかで有機的に行っていく。

ここでいう「もどき」による「うつし」というのは、それこそ芸能や職人の世界における相伝に近いのかなと想像します。
ドキュメントなどの形式化された知の伝達ではなくて、ゆったりとした時間のなかでの経験や場の共有による身体知の伝承
これがなるほどと思えるのは「みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。」「ユーザー中心のデザインは「みんなで手を動かしながら考え」なきゃ進まない」なんかで書いているように、僕自身がユーザーの経験や行動などの目に見えない情報を相手にデザインの仕事をしているからかもしれません。
それには確かに小さなライトサイズの組織が必要です。

文脈から外れた活動がなければ創造性はない

おもしろいところは山ほどあるのですが、ここではその一部しか紹介できません。

とはいえ、ここには最初に書いたとおり、膨大な知識をもった二人が、『古事記』『日本書紀』からダーウィニズム、伊勢神宮の式年遷宮ミラーニューロンから携帯電話のデザイン、映画監督の篠田正浩さんの『日本語の語法で撮りたい』という本、ギリシアの三叉路にたつ神・ヘカテ、三内丸山遺跡、ウィリアム・バロウズなどをごっちゃにしたアクロバティックなやり取りで、とんでもない創造的な世界を繰り広げています。

ここまでアクロバティックな対談が展開されると、それをどの文脈で読むかは読む側の自由だという気がします。たとえば、僕はここで情報デザインという視点から読んだわけです。
それこそ「文脈から外れた活動がなければ創造性はない」ということで、それにはとにかく知識はいくらあっても足りないなと感じました。

松岡さんのように「千夜千冊」とはいわないまでも、一年百冊くらいは軽くいっとかないとですね。



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この記事へのコメント

  • みっこ

    >ビジネス視点から離れてみるほうが創造性は発揮しやすい

    まったく同意です。

    瑣末な例で恐縮ですが・・・デザインにコピーひとつ入れるにしても、それを見た人の思考にどんな影響を与えるか、その集積がその人の人生に何を与えるか、一瞬でもいいから考えてみないか?と思うことがありますね。
    そういう離れた視点で考えると、まるで違う切り口が出ることって、あるんですよね。
    2008年01月27日 14:24
  • tanahashi

    本当にそうですね。

    最近思うのは、デザインしている人たちはちゃんと生活を知っているんだろうか?ってことです。
    自分たち自身がいろいろな生活を知らなければ、その知識を形に反映できないですよね。
    デザインの手法や技術を学ぶこと以上に、生活そのものを知るほうが大事なんじゃないかと思います。

    その1つとしての言葉、情報ですね。
    2008年01月29日 11:43

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