「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一

視野が狭い人が多くなっているのではないでしょうか。

一手先までしか読めない人。自分の専門分野のことしかわからない人。他人の気持ちが想像できない人。
とにかくすぐ目の前のことしか考えられないし、自分の狭い視野の外にあることを想像しようとしないし、想像できるよう努力したりもしません。

いまできることベースでしか考えることができず、わからないことがあったら単にギブアップするだけで、たとえ1ヶ月くらい猶予があってもその間にわかるために関係する本を10冊読むとか、片っ端からネットや人から情報を集めてのりきろうという努力もしようともしません。

さらにやっかいなのは、自分の「できない」はすぐに認めるくせに、他人の「できない」は見逃さないし、できる人にはただひたすら頼るばかり。
なぜ自分で考える、自分で行動する、ただ、ひたすらに。ということがもっと軽快にできないのかと首をひねりたくなるシーンはあります。

食品偽装と、浄土と穢土

また、きたないときれいがともに存在することが許せなくて、潔癖症になってしまっているのではないかと感じます。
浄土と穢土。
きたないことを許せないがために逆にきれいなものまで失われていくのではないでしょうか。

食品偽装の問題があまりに多すぎるのは誤魔化すほうだけでなく、誤魔化さなくてはならない状況をつくってしまっていることそのものにそもそも問題があるのではないかと感じます。賞味期限や食材の表示の偽装をうんぬんいうと同時に、そもそも、賞味期限、ブランド化した特定の食材、そんな表示のみでしか品質がわからなくなってしまった舌や鼻に問題があるとは考えないのでしょうか。

そもそも食べ物がまだ食べられるかどうかなんて食べる人よって異なる(おなかが強い人なら平気でもおなかが弱い人ならダメとか)のだから、一律に表示できるはずがないわけです。そんなものに頼り切ったり、その表示をなにか大切なものであるかのように賞味期限の新しいものを買うとかいう行為のおかしさを考えるべきです。

自分で味や食べられる/食べられないを判断する力がなくなっているから、賞味期限やブランド食材にたよる必要があり、売る側もそれしか売れないからこそ、偽装に走るという過ちを犯してしまうということも背景にはあるのではないかと思ったりします。

もちろん、それでも偽装していないところはあるのだから、偽装をすべて味覚を失った人びとのせいにするつもりはありません。誤魔化すのがわるいのは言うまでもありません。

でも、もし味覚の喪失が偽装に拍車をかけているのであれば、そっちも同時に問題にしたほうがよいのではないか。また、きたないことを許せなくなっていることが、同時にきれいなものまで存在しにくくさせているということをもうすこし視野を広げて考えてみる必要があるのではないか、と思うのです。

食品偽装の話だけではなく、朝青龍や亀田兄弟の話題にしたって同様です。
いや、僕は悪いことをした側の肩をもつつもりはすこしもありません。
そうではなく、それに対する反応に気持ち悪さを感じていて、それを問題にしたいだけです。
僕が問題にしているのは、悪いことをした「あっち」の側じゃなく、それを受け取る「こっち」の側の態度や姿勢のことです。
それはおそらくユニバーサルデザインとか、格差問題などにもつながってくる話だから、考えておいたほうがいいと思っているのです。

コンプライアンスだとかアカウンタビリティだとかは重要だとは思いますが、ただ、それを受け取る側の反応が異常です。
ネットでつながっちゃてるせいなのか、此岸と彼岸の区別もなければ、こちらとあちらもごっちゃだし、きれいなんだかきたないんだか糞味噌いっしょにして騒いでしまっている印象も受けます。
糞味噌いっしょの人が食品偽装をなんかんだ言ってもそりゃちょっと違うよねと思います。。

浄土について自分でちゃんと理解できていない人が、穢土に対してとやかく言ってもうさんくさい。穢土を理解できないくせに自分のまわりを浄土に見立てたってくさい臭いはプンプン漂ったままです。

蟪蛄春秋を識らず

それにしてもいまの世の中は、あまりに視野が狭くなりすぎていて、こことむこうの違いを理解できなくなっています。

木から降りて、二本足で立ち上がった裸のサルは、高くなった目線、より立体視に優れた顔の前面に並行して並んだ目をもつことで、開けた草原で距離感覚や場所の概念をもつことができたはずです。
いまいる場所から遠く離れた場所を見ることができるようになり、こことむこうの違いがわかるようになったはずです。
此処と彼処の違いを知ったサルたちは、村の外の山を異界として恐れ、此岸の無常に十全な彼岸を対置できるようになったはずです。

それなのに現代のスーツを着たサルたちは、ネットを通じて世界とつながっていると思っているサルたちは、かつて発見したむこうの存在を見失い、自分の狭い視野で見える範囲のいまここだけがすべてのように考えはじめているのではないでしょうか。

蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや
けいこしゅんじゅうをしらず、いちゅうあにしゅようのせつをしらんや

という言葉があります。「蟪蛄(夏蝉)」は春秋を知らない。「伊」というのは「これ」という指示語で、「伊虫」とは「この虫」、つまり、夏蝉のことですが、その夏蝉は、どうして朱陽の節、赤い太陽の季節、すなわち夏を知っていると言えようか、いや知らないのだ、という意味です。
竹内整一『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』

夏のあいだしか生きられない蝉は春秋、そして冬を知りません。それゆえに夏そのものも知ることができないということです。
おなじようにきたなさを知らなければ本当の意味できれいさを知ることはできないのではないでしょうか。まずいものとおいしいものを両方自分の舌や鼻で感じとれるからこそ、味がわかるようになるのではないかと思うのです。

知ろうとすれば、危険でも木から降りて、背筋を伸ばして遠くを見るしかなかったはずです。ネット経由で情報を探して、それでわかった気になっても、むこうは見えません。それは単に地続きのここでしかなく、そこに異界への渡りはありません。

はかない

竹内整一さんの『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』は、そんな日本の精神史の移り変わりを「はかなさ」「無常」をキーワードに、万葉集やいろは歌の時代から現代まで追いかけている一冊です。

「はかない」とは、「はか」がないこと、つまり、「はかがいく」「はかどる」の「はか」がないことで、努めても努めてもその結果をたしかに手に入れられないということから、あっけない、むなしい、といった意味をもつようになった言葉です。
竹内整一『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』

そして、その「はか」をもっと遡ると、田んぼの稲を植えたり収穫する際の仕事量をあらわす単位が「はか」だったそうです。ようするに「はかる」の「はか」ですね。仕事量をはかったのです。

つまり、「はかない」はいろんな意味で「はかれない」なのです。
図れない。計れない。測れない。諮れない。謀れない。

図っても、計っても、測っても、諮っても、謀っても、「その結果をたしかに手に入れられない」。

無常です。この世は無常。
色は匂えど散りぬるを、です。
色即是空、空即是色、です。
穢土の無常を耐えて、浄土を夢見る思想が生まれます。

はかなさを超える3つの戦略

竹内さんは中世から近代までの日本文学を読み解くなかで、はかなさを超える戦略にはこれまで3つの種類の戦略があったことを紹介しています。

  • 夢の外へ:この世は夢、だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
  • 夢の内へ:この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。
  • 夢と現のあわいへ:この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。

竹内さんは、この3つの戦略にそって日本の精神史における「はかなさ」「無常感」の移り変わりを紹介しています。

もちろん、どれが優れた戦略なのかということではありません。
「はかなさ」や「無常」を人びとがどう捉えてきたか。そして、それと同時に此岸と彼岸をどう捉え、此岸をどう生きようとしたかということについての変遷を見ているのです。

はか・あることを前提にした社会

そんな「はかなさ」とどう付き合うかをこれまで真剣に考え続けてきた日本社会もいまは、はかがあることを前提にした社会となっています。

図ること。計ること。測ること。諮ること。謀ること。
これらはビジネスの前提となる条件です。
意図し、計画し、測定し、諮問し、謀議する。

こうした発想が第一義になっている社会が、いわゆるbusiness(busy-ness=忙しさ)社会とのことですが、そこでは何より「はか」がいくこと、はかばかしくも結果を手に入れることが求められます。結果や成果から、今現在のあり方やふるまい方を決めるべく要請されてくるということです。その種の要請は、プロジェクト/プロデュース/プロモーション/プログレス/プログラム、等々、といった、西洋近代が本質的に抱えている、前のめり[pro-]の姿勢、前望的[pro-spective]な時間意識といったものに重なってきます。
竹内整一『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』

はかなさとデザイン

この本を読んで、他人事じゃないなと感じたのは、僕がこのブログを通じてずっと考えているデザインということそのものが計画であり、意図であり、謀(はかりごと)であるからです。

ただ、この本を読みながら(いや、正確には他の本も同時期に読みつつですが、それはまた別の機会に)あらためて思ったのは、もはや前のめりの姿勢、前望的な時間意識のなかだけでデザインを考えてはいけない時期なのだということです。
それはある意味ではビジネスのなかだけでデザインを考えないことに置き換えてみてもいいかもしれません。
前のめりの姿勢は「未来」という一見遠いところを見ているようですが、その実、現在の地続きの未来を捏造して計画とやらを立てたつもりになっているのにすぎません。今日の問題を先送りにして成り立っている(そもその資本というものがそういうものですから)のにすぎません。

すこし前から日本という視点、日本という方法でデザインを考える試みをはじめているのですが、その試みには、この本で描かれた「はかなさ」や「無常」といった視点、あるいは内と外、夢と現実、穢土と浄土、此岸と彼岸、こことむこうの二極をそのまま取り込んだ形でデザインするという姿勢が必要なのだろうなと思ったのです。

穢土と浄土、此岸と彼岸、こことむこう、ということについては、このエントリーだけでは何のことを言っているのか、わからないと思いますし、僕自身、自分の考えをまだまだ書ききれていないので、しばらくはこのブログの1つのテーマにしていきたいと思います。

この本はそんなことを考えるきっかけにもなりましたし、また、あらためて日本の古典文学のおもしろさも教えてもらった気がします。
読みやすい本なので興味をもたれた方はぜひ読んでみてください。



関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック