トトロの気持ちになってみましょう。彼はまず、自分の体の上から見た断面積を覆うほどの面積を持った葉っぱと、その葉っぱの面からほぼ垂直に伸びる葉柄が、ある程度の耐久性を以て結合されている物体を観察する。観察しているのはつまりこの物体の「構造」であります。これは普通の観察能力を持った人及びトトロならおそらくほぼ等しく達することができる観察成果が「構造に関する情報」として得られる。藤本的に言うなら、「構造設計情報」は、普通のセンシング能力を持った主体ならば客観的に共有できるものである。
僕が疑問をもったのは、ここで「普通のセンシング能力を持った主体ならば客観的に共有できる」構造というのは果たして純粋に物理的、形態的な構造なのだろうかということです。
fuku33さんがすこしあとで書いているように、トトロが発明したのは「この物体は傘として使えるだろうか?」という問いであり、ここでは純粋な物理的、形態的な構造を見ているのではなくて、傘との類似構造を見ているのではないかと思ったのです。
すでに存在し利用されている「雨水を遮蔽する傘なる道具」と類似の構造を葉っぱに対して見ることで、構造と用途の結びつけが可能になっているのではないか、ということです。いわゆる「見立て」ですね。
なので、傘という道具に関する知識、その用途に関する知識はすでにあることで、葉っぱを傘に見立てることが可能になったのではないか、と。
(まぁ、西表島に行った際に現地の人が、トトロが傘にしているようなイモ科の大きな植物を指して、昔はこれを傘にしていたという話をしてくれていたから、歴史的には葉っぱの傘が先立ったのかもしれませんが)
何がいいたいのかというと、そうなると「設計情報を伝わるようにする」ということ自体が問題になりうるよねということです。
僕の頭に浮かんだ問題は以下の2つです。
- 機能から導き出される構造・形態と用途を喚起するためのそれは必ずしも一致しないのではないか
- これまで用途そのものが存在しなかった機能の設計情報を伝えるにはどうしたらよいか
機能から導き出される構造・形態と用途を喚起するためのそれは必ずしも一致しないのではないか
複雑な道具を想定した場合、もの自体の構造がもつインフォメーションとは別に、アフォーダンス(行動リソース)としてのインストラクションが必要になってくるケースは多々あると思うのです。本来、機能を支える構造そのものには直接関係のない構造あるいは形態を、用途の結び付けのために付加するということが必要になってくるケースです。
想定しているのは、ビデオカメラや携帯電話のような道具です。そうした道具は単に用途-使い方をインストラクトする形態が必要なだけでなく、インストラクションの道具として別途マニュアルがつくことになります。
インストラクションをマニュアルに頼らない場合、ものの形態そのものに用途を利用者に喚起させるための情報が必要になります。それは必ずしもものの機能のために必要な形態とは限りません。
傘やコップ、ペーパーウェイトのような道具であれば、機能から導き出される形態と用途を喚起する形態はきわめて近いと見ていいでしょう。
しかし、ビデオカメラや携帯電話のような道具では違います。そもそも機能そのものはブラックボックスとなっていて可視化された構造を持ちません。「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」で書いたように、それらの道具は用途-使い方が記号化されています。筆や傘のような道具と違って、利用者の行動が身体的-物理的なつながりとは無関係に再構成された記号的な操作を要求します。
そのため、操作をインストラクションするために、既知の用途を想起させるアイコン(ゴミ箱やメールなど)を使って利用方法を利用者に伝えることになります。このケースでは設計情報を伝えるために、機能を構造化するのとは別の配慮が必要になってきます。そして、構造に頼れない以上、実在する利用者の用途、そして、その用途に関する知識を使って、その類似から利用者に用途を想起してもらうことを期待することになります。
これまで用途そのものが存在しなかった機能の設計情報を伝えるにはどうしたらよいか
また、同様の問題が、構造は単純でも、用途そのものがこれまでになかったものを発明した場合には問題となります。最初のトトロの例では、用途そのものは発明されていません。用途が既知であり、その用途に用いられる傘という道具が既知だからこそ、葉っぱを傘の代替品として利用するという発想が生まれます。
しかし、用途そのものが未知であり、とうぜん、その用途を満たす道具も存在しないとしたら、いかにして新しい用途に用いる道具の設計情報を利用者に伝えることが可能なのでしょうか。
もちろん、単純な答えとしては、マニュアルを使う、利用シーンを想起させる映像などを使うなどの答えはあります。
しかし、もの自体の構造・形態から用途を喚起することはできるのでしょうか?
ファウンド・オブジェクト
ひとつの可能性として、アキッレ・カスティリオーニや深澤直人さんが用いる「ファウンド・オブジェクト(found object)」というデザインの手法を用いることが考えられます。ファウンド・オブジェクトは、日常で使われているすでにアイコン化したものに付着する人間の共通の行為やさまざまな事象を、まったく別のもののデザインに使うことで、その新たなものの機能や意味を使い手に暗示するデザインの方法論です。先のデジタル化されたアイコン使用を、物理的な場面でも使う方法です。
深澤直人さんがデザインした、換気扇型のCDプレイヤーなどはその一例です。
この方法をうまく用いることで、新しい用途をもった道具の使い方-設計情報を、利用者に喚起させることはできるかもしれません。
いずれにせよ、いまのデザインにおいては、インストラクションをどうするかは大きな問題です。設計情報をいかに伝えるか、つまりユーザーインターフェイスをどう設計するかは、機能から生まれる形態とは別に考えていかなくてはいけません。
もちろん、それには利用者の利用状況、そして、用途に関する知識を、設計者が把握している必要があるでしょう。新しい用途と書きましたが、既存の用途がはじめて使う利用者にとっては新しい用途である場合もあります。そのあたりも踏まえたユーザーインターフェイスの設計が必要なんだと思います。まさにインストラクションの設計ですね。
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この記事へのコメント
三宅秀道
また僕の元エントリの意図は「創造的開発者視点」からのものですが、実はこれは「消費者視点」と実は変わらない面があるはずで、モノの「開発」と「消費」とはどう違うのか、という問題に関わって来ますね。僕は「なんであれモノから有用性を引き出す行為のパターン知識を最初に創造するのが開発で、それが社会的創造である場合と個人的創造である場合に大した違いはない」と思っていますが。
このあたり非常に深い問題なので、掘り下げてまた書きたいと思います。
創世記も「はじめに言葉ありき」と始まるように、まずコンセプトが先行してこそヒトは自然物からモノを道具として導出できる面もあると思うのですが、それだけだと「どうやって世界にこれだけたくさんの種類のモノがあるのか」の説明が大変です。コンセプトはどうやって創造されるんでしょう?それもまた考えて行きたいのですが。
愛読ブログから言及されてちょっと嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします。
hiroki
そもそもコンセプトの数と道具の数は一致してるのでしょうか?
感覚的にはコンセプトの数は、実はすごく少ないのではないかと思っています。
アフォーダンス理論の研究家エドワード・リードは、新石器時代から人類の歴史を何万年かたどっても14種類のものしかなかったと言っています。
http://gitanez.seesaa.net/article/43608886.html
見立てという技法があるのでモノ自体は増えても、コンセプト=用途はそうそう増えないのかなという気もしています。
あと話は変わってもう1点。
「開発」に「消費」を対応づける視点はどうか、と。
僕は「消費」ではなく、あくまで「利用」を位置づけたいところ。
費(=火、霊)を消す方向を「開発」に対応づけるのはあまりにはかない。
三宅秀道
コンセプトが古代まで何万年も十数種類だったのが、近代に入って爆発的に増加したという歴史が面白いと思うんですね。モノをいじることがものづくりだった時代から、生活様式の偶有性・多様性が増して、急に「コンセプトから創り込む」ことがものづくりに変わったのではないでしょうか。もちろんそうなっても、温故知新というか、基本はそうは揺るがないものでしょうが。
「消費」という言葉、経済学用語ですが、確かにはかなく、あんまり愉快じゃないですね。容易に減耗しない物体からずっと便益を引き出す知恵が文化ですから、「利用」とか、せめて「使用」という言葉を、デザイン論については今後使おうと思います。なくなるのじゃなくって、使いこなして活かすものですものね。