原 空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、2つの手を合わせて水をすくって飲んだはずです。それが器の始原。器という道具の原点、原型です。だから、「棍棒」と「器」。道具の始原は2つあると思うんです。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
「棍棒」と「器」という道具の2つの始原。
「サーフェスの変形だけが人生である」というエントリーで紹介しましたが、アメリカの生態心理学者であるエドワード・リードによると、考古学の史料で新石器時代から人類の歴史を何万年かたどると、ずっと人の周囲にあったのは「容器」「棒」「スポンジ」「くし」「叩き切るもの」「楽器」「ひも」「衣服」「装飾品」「尖ったもの」「 縁(へり、edge)のあるもの」「顔料」「寝床」「火」などの14種類のものだっただそうです。そんな14種類のものが人間の暮らしを支えていたのでしょう。物理的にも、生物的にも、精神的にも。
原研哉さんと阿部雅世さんによる対談集『なぜデザインなのか。』は一言でいえば、暮らしを支える人工物という観点から、あらためてデザインという行為を問い直す必要性について語らい合われている本だと思います。
生活文化に対する責任を意識しないベンチャー系の若い企業オーナ
すでに読み始めの時期の「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」というエントリーで「かなりワクワクする本」と書いたように、一冊丸ごとワクワクしたまま読み進められました。しかし、同時に単にワクワクしているだけではいられない、とても身につまされる思いも感じながら読んでいました。
原 ベンチャー系の若い企業オーナーたちはビジネスを生み出す独創性には優れている反面、文化に対する責任が希薄です。というか、自分の利益や趣味に直結しないものは疎んじて遠ざける傾向がある。これまでは財閥系にしても一代で財を成した実業家にしても、ひとかどの企業なら高度成長の中ですら、その企業が担っている生活文化に対する責任を意識してきたと思うんです。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
これを僕は教養の問題と思って読んだ。生活文化に関する教養のないために、ビジネスと人びとの生活を直結して考える方法を思いつくことができない。それが昨日の「見立てという方法とともにある日本」で引用した「装飾には、教養が必要ですが、現代のデザインには、文化人類学的な発想が非常に少なくなってしまいました」という言葉につながるところです。
企業もまた人工物です。道具です。その人工物をデザインする役割の企業トップが文化に対する責任を全うするためのデザインができない。デザインを行うための教養がないのでしょう。そして、それはもちろん、企業トップの問題であるだけでなく、おなじようにそうした教養をもたない僕らの問題でもあります。
責任を意識するための教養
そんなことを思いながら年末に「「生活文化のアップデート」につながるデザインの方法についていろいろ模索中」「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」を書いた。今年の最初のエントリーを「「間」のデザイン」にしたのもそんな鬱々とした思いがあったからでした。原さんは「責任」と言っていますが、責任とかじゃないんだと思うのです。責任を意識するためには、それが感じられる、「わかる」ための教養が必要だからです。
ベンチャー系の若い企業オーナーたちにしても、僕らにしても欠けているのは、そういう基本的な教養だなと思いました。
阿部 生活はこうあるべき、家族はこうあるべき、衣食住のさまざま、時間、お金の使い方にいたるまでどうあるべきか。これはヨーロッパでは、宗教で厳格に裏打ちされているもの、と考えていただいていい。バイブルというのは、誤解を恐れずに言えば暮らし方の絶対教本ですから、そういう宗教に裏打ちされた哲学が確固とした家庭で育った人ほど、親の生活文化を純粋に継承しているように見えますね。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
別に日本に確固とした宗教がないからダメだとは思いません。だって、すくなくとも明治期までは日本もやってこれたのですから。
江戸時代の寺子屋では、百人一首や論語を暗唱し、中国の古典は長唄などの庶民の芸能にも取り入れられて、芸を楽しみながら親しまれた。山田奨治『日本文化の模倣と創造』
というのが生活文化に参照項を与える教養として役立っていたのでしょう。
グローバリズムに対するローカライズの作業
「「間」のデザイン」でも「見立てという方法とともにある日本」でも書いたように、日本は昔から外来のものを自分たちの生活のなかに受け入れて、暮らしを成り立たせてきました。海に囲まれた島国なのですからとうぜんなのでしょう。ただ、それをそのまま使い続けるのではなく、漢字から仮名を生み出したように、中国の茶器から国焼きの茶器を生み出したように、見立てという方法を介して、日本独自のものをつくりあげてきた文化だったはずです。そこにはきちんとしたローカライズの作業があった。ただ、ここ最近はそのローカライズの作業が消えているという印象があります。外国語を日本語に置き換えるだけのローカライズで終わってしまっています。
阿部 たとえば「システムキッチン」と言われている、いわゆるヨーロッパやアメリカから輸入されたスタイルを考えると、ヨーロッパの場合、日本ほど頻繁に料理をしないし、皿や小鉢の種類も多くないからあのシステムの中に全部納まります。でもに本の、特に現代の食生活というのは、あのシステムには絶対納まらない。一度あの型を忘れて設計しなおさないと。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
原さんは「グローバルというのは経済用語と考えた方がいい」と言っています。「文化を語る言葉として広げすぎない方がいいでしょう」とも。
文化においてはグローバル・スタンダードなんてものはなくていいと僕も思います。
内田繁さんも、近年の「どんな人でも、どのようなときでも、どこででも同じように使えるものを善し」とするユニバーサル・デザインの概念は、「ある場面では輝いても、それ以外では輝かないということを許容」する日本古来の生活文化の考え方とは大きく異なる点を指摘しています。
日本ではかつては衣服だけでなく、家そのものも衣替え(襖と障子を取り替えたり)をしていたのですから。いや、季節ごとの衣替えだけでなく、ハレとケを移し変えるためにウツの空間を異なる道具を使って演出しなおしてきたのが日本文化です。茶の湯で主人が招く客や季節によって趣向をこらしたのとおなじように。
阿部 グローバル化がこういうかたちで進んでいるいまだからこそ、ローカルの価値が出る。ここでしか食べられないものがあるというのは、ローカルが飛躍的に価値を持って光りだすチャンスかなと思います。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
それにはたしかにキッチンそのもののあり方から見直さなくては=デザインしなくていけません。
世界中がおなじようにGoogleに頼ってるだけではダメでしょう。
欲望のエデュケーション
原さんの言葉に「欲望のエデュケーション」がありますが、原さんはデザインには「欲望のエデュケーション」を行う役割があるのではないかと考えています。原 マーケティングによってニーズを、つまり甘やかされただらしない欲望を掘り起こして、ほしいものを与えていくことによって生まれる文化よりも、デザインによって覚醒されていく生活の方が、確実に社会を豊かにしていくからです。そこに早く気がついた経済文化圏が、やっぱり次の時代をリードしていくんじゃないでしょうか。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
デザインには暮らしの叡智があると原さんは考えています。
確かに僕らが教養をなくしても、教養があった時代に使われていたものの形にはそれが叡智として記憶されている可能性があります。それを読み解き現代の生活をよりよいものに変えていくために、活用する力がデザインにはあると原さんは考えているのです。
原 岩は残るし、都市も建築物も残るけれども、人に伝えられないまま忘れ去られた叡智がそこにはたくさん眠っている。それを読み解く力がないと、それらは読み解かれないまま、朽ち果ててなくなってしまう。さまざまなものの中に込められた叡智を、ひとつひとつ読み解いていくことによって、世界が少し気持ちよくなる。そういう共通認識が持てるはずなんです。これからは、そういうことが本当に必要な時代になっていくと思います。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
読み解く力。
つまり、やはりここでも教養が必要になります。もちろん、教養だけではなくおなじくらいの感受性が必要になるのだけれど。
さて、あなたにはそれがありますか?
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