「間」のデザイン

あけましておめでとうございます。

今年の書初めはこんなエントリーから。
「間」についてです。

「間」は日本独特の観念だといわれています。外国人に「間」を説明するのはなかなかむずかしいといわれます。「間」は説明するのはむずかしいけれど、たいていの日本人は「間」を程度の差はあれ、理解しているはずです。

だから、「間」に関する言葉がたくさんあるのでしょう。

  • 間抜け
  • 間延び
  • 間がわるい
  • 間をもたせる
  • 間違う
  • 間に合う
  • 間合い
  • 間際
  • 間怠こしい(まだるこしい)

など。
昨年の流行語に「KY」なんてのがありましたけど、空気は読めなくても、間はわかるのかな。ここに挙げた言葉のリストを見ると、結構、間を読むのも大変だろうなって思います。本当に間違ったりしないようにしたり、まだるっこさを他人に感じさせないようにするには、相当、間合いを読む力が必要そうですよね。真剣勝負で相手の間合いを読むような力が。

「間」は訓読みすれば「あいだ」ですよね。だから、当然、時間や空間という言葉につながってきます。合間、隙間、雨間などの言葉もあります。柱や壁などにはさまれた空間は、客間になったり、居間になったり、応接間、床の間、お茶の間になったりします。襖ももしかすると「伏す間」であり、間を隠すことから生じたのかもしれませんね。

間と真

ところで「間」という言葉。上代あるいは古代初期の日本では「ま」には「間」ではなく、「真」の文字が充てられていたそうです。
こうなると、大分「ま」のイメージが違ってきますよね。

  • 真剣
  • 真理
  • 真相
  • 真面目
  • 真っ正直
  • 真にうける
  • 真鯛、真鯉など
  • まこと(真、真事、真言)

漢字が伝わるまで、長いあいだ、日本人は文字のない生活をおくってきました。もちろん、それまでも話し言葉はありました。文字がなかった時代、とうぜん、「ま」は口から発せられる音としての ma でしかなかったはずです。それに上代の日本人は「真」という字を充て、最も最高の概念、中心の概念になるようにした。

万葉仮名

話し言葉に中国から輸入した漢字を充てたのは、何も日常的な必要性からではありません。政治的な必要性からです。法制度の確立、政治体制の確立(役人の任命しその役職を表記するため)、歴史書の編集のためには文書を書き記すための文字が必要だったからです。
そして、日本人は万葉仮名という表記法をつくった。
自国にもともとあったオーラル・コミュニケーションでのことばを活かしたまま、それに外来の漢字という文字を充てた。ローマ字で書くのとおなじですね。ただ表音文字であるアルファベットを使うのと、表意文字である漢字を使うのではちょっと意味が違いました。

話し言葉でのことばに文字を充てる場合、もともとの漢字がもっている意味を古来の日本人は活かそうとした。そこでひとつの文章のなかに、表音文字として漢字を用いる場合と、漢字を訓読し現在の漢文読みの際に用いられるようなレ点などを用いた和化漢文といわれる表記が入り混じるような記述方法も生まれました。
これは相当読むのが大変だったはずです。もちろんどこからどこまでを音読みし、どこからどこまでを訓読みするかは示されていたそうですが、結局は全部おなじ漢字を使っているのに場所によって読み方が違うわけですから。

そんななかで従来「ま」と発音されていたことばには、漢字のもつ意味も考慮されつつ「真」の文字が充てられたのです。

真名と仮名

その後に万葉仮名から女手(おんなで)と呼ばれるかなが生まれたのはみなさん、ご存知のとおり。真名に対する仮名です。
中国から取り入れた漢字を真名とし、そこから派生した日本独自の文字を仮名としたわけです。

これとおなじことはその後、日本では何度も起こります。
茶の文化においても、中国伝来の茶器を「真」とし、国焼きの和物を「草」としました。いわゆる真・行・草ですね。ちなみに茶の文化においては「行」はあとから高麗物を指すようになります。

まぁ、海国ですし、海外の文化を自国に取り入れることは何も日本ばかりで起こったことではなく、世界中のどこでも起こったことですし、いまも起こっていることですから、ここで日本を外来志向の強い国だとかとやかくいうのは正しくありません。

ただ、日本のおもしろい点は、外来のものを「真」として尊ぶ一方で、それを元に日本独自の「仮」や「草」を生み出ところです。
真名に対して仮名、中国の焼き物に対して、国焼きの和物を。庭の様式にしても中国の庭園から水を抜いて枯山水にしちゃった。禅にしても、いろんな外来神をごっちゃにまとめた七福神(日本の神様は恵比須さんだけです。大黒天なんて元はあのシバ神なのに随分和んだ姿に変えられてます)にしても、福神漬けののったカレーライスにしても、です。

真から間へ

話を「真」に戻すと、「真」というコンセプトは「二」を意味したものだったそうなのです。

おまけにその二は、ここもまた重要なところなのですが、一の次の序数としての二ではなく、一と一が両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していたのです。

「二」を意味する「真」という概念。「真」を成立させるもともとの「一」は「片」と呼ばれていたそうです。片方や片側の片です。この片が別の片と組み合わさって「真」になろうとする。「二」である「真」はその内側に2つの「片」を含んでいるのです。

そして、これがどう「真」から「間」への変化につながるか。

それなら片方と片方を取り出してみたらどうなるか。
その取り出した片方と片方を暫定的に置いておいた状態、それこそが「間」なのです。

「真」は本来の赤い糸で結ばれた相方を見失い、ランダムに相手をあてがわれて「間」となる。あてがわれた相手とは赤い糸で結ばれているかもしれないし、そうでもないかもしれません。それが「間」のデザインです。

奇に傾く、片の冒険

そのうち片方が勝手なことをしはじめて対象性が失われる。片方が勝手に動けば偶数ではなく奇数になる。奇に傾けば傾奇(歌舞伎)が生まれ、何度も何度も奇を漉くから数寄(好き)になる。数寄の遁世。僕も今年は新たな「間」を求めて旅に出ようか、と。

そういう「片」と「片」が結ぶ着いた仮の姿としての「間」。
ただ、間違えなければ、間抜けなことをしなければ、間合いがあえば「真」になる。そうやって相方(片)を探すわけです。
日本人が「間」という観念を大事に感じるのはそういう記憶が身体に眠っているからなんですかね。

西洋の絵画のように画面を塗りつぶさずに、余白の「間」を残す日本の絵画。
「うつ(空)」の空間があってはじめて、そこからイメージがうつろい出る。
そんな絶妙な「間」を大切にする技術をもった日本こそを今年は中心的なテーマに探求していきたいなと思っています。

どうでしょう。七福神も登場させて、すこしは正月っぽさのあるエントリーになってますでしょうかw

では、今年もみなさん、よろしくお願いいたします。

  

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