身体なき体験の終焉(いや、はじまってもないけど)

もっとらしく見えて実はここには見落としがあるのでは?
まぁ、元エントリーの論旨と一致していませんので批判というのではなく、自分の頭を整理するために。

「ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ」と言うマーケティングの金言があるが、コンテンツを求める客にも同じことが言える。消費者が本当に求めているのはコンテンツでは無い。
にも関わらずコンテンツ自体に価値があると未だに信じ込んでいる権利者側は頭が悪い。また、今さら「コンテンツ立国」を政策として掲げようとするどこかの国の政府にも呆れるしかない。しかし同時に、自分が本当に欲しいものが何であるのか自分でわかっていない消費者にも、事態を悪化させている責任の一端がある。

それは消費という観点から捉えているからで、見落としているのは所有ではないだろうかというところから考えてみます。

コンテンツは必ずしも体験により消費されるだけではなく、同時に所有されうるものでもあるということがここでは見落とされているような気がします。
それこそ昨日書いた「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」ともつながる話ですよね、これは。

レビットの金言の修正

「人は、4分の1インチのドリルを欲するではなく、4分の1インチの穴を欲する」というマーケティングの金言があります。セオドア・レビットが『マーケティング発想法』という著書のなかで述べたことです。人は商品そのものではなく、商品がもつベネフィットを買うのだということです。
以前、「人は、4分の1インチの穴を欲するではなく、4分の1インチ・ドリルを欲する」とエントリーを書きましたが、あれは間違っていたと思います。しかし、同時にレビットの金言とやらもあらためなくてはいけないでしょう。

正しくは「人は、4分の1インチの穴だけを欲するではなく、4分の1インチ・ドリルも欲する」というべきなのでしょう。

すべての体験にはものとそれを感じとる身体が必要

体験についていえば、これは確かに正しい。

体験は、少なくとも現在の技術ではコピーできない。コピーできないその場限りの唯一無二のものであるという点で、コピーの氾濫する現代において 相対的な競争力が高まっている と言える。

しかし、コピーできないのは実は体験だけではありません。ものそれ自体も本来的にはコピーは不可能です。もちろん、ここでいっているものはコンテンツではありません。コンテンツは消費の対象になりますが、ものは所有の対象になりえます。もちろん、すべてのものが所有欲を喚起されるわけではありませんし、すべてのものが他との差異によってコピーを拒むわけではありません。

人間にはCDやDVDのような物理メディアの形でコンテンツを所有したがる習性がある。しかしこれは、コンテンツ自体を消費者が求めている、ということとイコールではない。消費者は「所有している実感」を求めているのだ。

そう。人はコンテンツを所有したいのではありません。ものを所有したいのです。ただし「所有している実感」こそがものを所有することでしか生まれえないことがここでは不問にされていますが、僕はここにこだわってみようかと。
いや、所有しているという体験のみならず、すべての体験にはもの、そして、それを感じとる物理的な身体が必要だということを。

コンテンツは終わらない

インターネット上のコンテンツといえどもそれは例外ではないはずです。PCや携帯電話などの物理的なデバイスを介した体験によってしか物理的な人間は何も体験できません。体験は文字通り身体の経験であるはずです。夜中に寝ながら見る夢というコンテンツでさえも自身の身体というものがなければ見るという体験をすることはできないでしょう。痛みというコンテンツなのか体験なのかなんだかわからないものもあります。

それはお金というコンテンツだっておなじです。電子マネーでさえ物理性から無縁ではないし、どんなに抽象化しようとも人間が使えるお金はなんらかの物理性を免れません。利用という体験をともなう行為には身体が感じられる物理性が不可欠なのではないかと思います。そして、このことを甘く見てはいけないのではないかと感じます。

コンテンツは物理的な媒体なしでは存在しえません。そして、体験も。
では、このコンテンツと体験に共通する物理性-身体性とはいったい何なのか?
そこがポイントなのではないでしょうか。

楽器という例が挙がっていたので、楽器のコンテンツ性-物理性について考えてみましょう。
楽器を吹いたり弾いたりすることで得られるのは確かに体験ということができます。しかし、体験の前に演奏されて感知されるそれは何なのか。聴覚的な刺激として身体が感じとるそれをコンテンツと呼ぶことはできないか。もちろん、それは買ってきたコンテンツでないことは確かです。ですが、それは自分がつくりだしたコンテンツなのでしょうか、それとも、楽器がつくりだしたコンテンツなのでしょうか。あるいは、楽器を演奏することとYouTubeの動画を観ることの違いはなんでしょう。自分でつくりだしたか、他人がつくったかでしょうか?

コンテンツを狭く捉えると、確かにそれは終焉を迎える可能性はなくはないと思います。
ただ、コンテンツはものと分かちがたく結びついているし、また、人間の体験もものとおなじくらいかたく結びついています。どこまでいっても結局、人がものの体験として消費するのはコンテンツではないか。コンテンツなきものはそれこそ欲望を喚起しないでしょう。

問題は消費ではなく所有ではないか

そして、同時にコンテンツを体験=消費した後にはものの所有が残ります。ユーザーエクスペリエンスなどという言葉がもてはやされていますが、消費という観点にばかり目を向け、所有(し続ける/し続けずに捨てる)という観点から経験を見ないユーザーエクスペリエンスにはうんざりします。

僕にはむしろそのまま所有されるか/捨てられるかするものの運命を差し置いて、消費の観点からのみコンテンツが語られる社会の雰囲気のほうがどうかしているように感じられます。
問題は消費のほうではなく所有のほうにあるのだと思うのです。マーケティング目標の達成のために、一家に一台、一人に一台が推し進められてきた所有がおなじように、コンテンツにも求められていることのほうを問題にしなくてはならないのではないかと。

その意味では「今さら「コンテンツ立国」を政策として掲げようとするどこかの国の政府にも呆れるしかない」としかないというのは同感です。
でも、それとコンテンツの終焉とは別の問題なのではないでしょうか。
そして、コンテンツの物理性が忘れられているからこそ、シニフィアンとシニフィエの混乱に戸惑う身体が感受性を失いそうになっているのではないか、と。

以前、松岡さんが言われたことですごく印象に残っている言葉があるんです。「編集工学研究所で、スタッフがコンピュータにずっと向かっているのを見ると、ゾッとする」って。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

インターネットのコンテンツであれ、コミュニケーションであれ、どうにかもうすこし物理性-身体性との紐づけを強くする方向で考えないといけないのではないかと考えたりします。

「決死の覚悟」か…
長く使い番をしておればよく耳にするつまらぬ台詞よ
口ではいえど
人間 生への執着はそう易々と捨てきれぬもの
「物」にかかわる執着は特にな

やっぱりこれに尽きるんじゃないでしょうか。

残る疑問は、コンテンツとベネフィットはイコールかという点かな。ようするにドリルの穴はコンテンツなのか?
長くなりましたので、これはまた別の機会に。

  

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