iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い

これは「道具」と「方法」という視点からデザイン(というもの)を考えようとしている立場からすると、考えさせられるものがありますね。

いま、われわれが持っている道具とか方法というのも、結局、個々人がというより、われわれに至る生き物がずっと習慣化してきて、その中で蓄積されてきたものだと思います。ですから、いまここにあるものを、われわれは自分が所有しているかのように錯覚するけれども、それは所有というのではなく、単に受け継いでいるということなのですね。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

松岡正剛さんと茂木健一郎さんによる対談集『脳と日本人』のなかの茂木さんの言葉です。
松岡さんの『千夜千冊』から千回くらい繰り返す習慣にしないと脳が更新されないという話から、そもそも個人的な蓄積ではどうすることもできない進化過程での蓄積もあるということから上記の発言になっています。
最近、このブログでは、習慣化による千回の蓄積みたいなものを考えるテーマの1つに置いてきましたが、進化過程での蓄積という話となると唖然としちゃいますね。

また、これを受けての松岡さんの話が、デザインを考える立場ではこれまら考えさせられます。

千の単位で繰り返された習慣が臨界値に達して何かを創発することと、習慣もないのに便利になった道具を持っていることの格差が、これから、ますます開いていくだろうね。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

身体という内部記憶を使うか、道具という外部記憶を使うか。「ヒトが使う道具のデザイン:ドーキンスの「延長された表現型」」で道具を身体の延長線上にあるものとして見る見方を紹介しましたが、延長にあるといっても、箸と携帯電話は異なるもの。それは記憶ということを考えると、ちょっと放ってはおけない話だなと感じます。

記憶の3階層

記憶という話では、前に紹介した山鳥重さんの『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』にこんな図が紹介されています。

3階層の記憶

記憶が進化の流れの中で出現し、時間をかけてその性能を高めてきた機能であり、通常われわれが、忘れる、覚える、などの言葉で表現する記憶は、動物行動という大きな立場からすれば、氷山の一角にすぎないということを強調しておきたいと思います。

先の茂木さんの発言はこの1番の下の階層の白い部分に言及したものです。さらに「千の単位で繰り返された習慣」は2番目の層の「意識に呼び出しにくい記憶」を創発することになるのでしょう。

筆と携帯電話

で、これで何が問題かというと、1番下の階層はもうどうにもならないので、そういうものがあるということをデザインする際には忘れないでおくという程度しか対処のしようがないのですけど、2番目の層の「意識に呼び出しにくい記憶」というのは大事に考えていかなくてはいけない問題なのだなと思うわけです。
先の松岡さんの引用に「千の単位で繰り返された習慣が臨界値に達して何かを創発することと、習慣もないのに便利になった道具を持っていることの格差」ということがありましたが、これはそのまま創造性の格差につながってくると思うからです。手でものをつくれるクリエイティブ・クラスとそうでなく頭でしかものを考えられない人がもつ創造力の格差として。

再び、茂木さんの言葉を引用します。

携帯電話と自分の手の指の相互作用の軌跡には、ほんとうは無限の可能性があるわけですね。もし筆で描くとしたら、すべてが軌跡として定着されるわけです。そのときには、良寛さんの筆から雪舟の絵に至るまで、それこそ無限の可能性があるはずだ。ところが、操作そのものが記号的に定義されてしまっているので、その無限の豊穣さが生かされていない。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

僕はものの形は人の動きの軌跡を輪郭としてたどるののだと書いてきましたが、それが筆や箸のように軌跡そのものの自由を奪わないものと、携帯電話のキーのように操作そのものを記号化し、行動の軌跡から創造性が生まれる可能性を奪ってしまうものとでは、おなじ道具と呼ぶのにも格段の差があるなと感じたわけです。

表現力と創造性

紙やホワイトボードに文字や図や絵を描いて表現できる人と、キーボードを使わないと表現できない人では、創造性において大きな違いがあると思います。前者は「意識に呼び出しにくい記憶」と「意識に呼び出しやすい記憶」の両方を使って創造性を刺激することができますが、後者は極端な場合、「意識に呼び出しやすい記憶」のほうしか使えない可能性があります。「「考える」方法を学ぶ」などのエントリーで、頭のなかで意識を素材に考えるのも、こまめに紙に書いてアウトプットしながら考えるのはどちらもアウトプットを使うんだから両方できたほうがいいと書きましたが、手や身体を使って考えられないということは実はかなりマズイことなんじゃないかとあらためて思いました。

松岡さんはこの話の流れで、写真家の土門拳さんの練習について話をしています。土門さんは修行の時代に「おまえみたいなカメラの持ち方じゃだめだ」といわれ、事務所のビルの屋上からみえる「ライオン歯磨」の広告を被写体に「ラ」「イ」「オ」「ン」とさまざまな角度からパッ、パッとシャッターを押す練習を繰り返ししたそうです。これも千回ぐらい繰り返したと土門さんが書き残しているそうです。

道具と道具の身体化という関係は、土門の練習のようなものを抱えているはずですね。人間工学が悪いとは言いませんが、なにかまちがった感じがする。
松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』

確かにそうだという気がしています。人間をラクにさせるばかりが道具じゃないでしょう。自転車や楽器のように練習しないと、うまく使いこなせないような方向性についてもきちんと考える必要があるのではないかと思っています。iPhone/iPod touchで喜んでる場合じゃないな、と。認知科学の観点から人間の「わかる」を研究してデザインに反映するのもいい。ただ、その結果、人間の行動をあの小さなインターフェイスとのインタラクションに記号化してしまい、身体の学習を阻害する方向性はどうかと考えてみるべきではないかと思うのです。iPhone/iPod touchの方向性とは違う意味での、ユーザー中心のデザインのアプローチや、ユーザーエクスペリエンスのデザインについて考えることが必要だと思っています。

という意味で、先日の「「生活文化のアップデート」につながるデザインの方法についていろいろ模索中」で書いたように、もう一度、作法というところから考え直さないといけないなと思っているところです。

   

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