まずは松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集『脳と日本人』から松岡さんの発言を引用。
遠くを感じることが近さを強化していくんです。ニュートンのリンゴと星の関係のようにね。松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』
これに対して「一見縁遠きものたちの間に脈絡を付けるということですね」と茂木さん。まさにこれは松岡さんのいう編集という方法の成せる業ですね。
また、この話は茂木さんのクオリアもここに重なってくるし、茂木さん自身「5年ぐらいほぼ毎日、日記をつけつづけています」というクオリア日記の意味も「脈絡を付ける」試みとして読むことができます。
ニュートンがリンゴと星という無関係なものの「脈絡を付ける」ことで偉大な発見をしたように、発見にはこの遠くのものと近くのもののあいだにいかに「脈絡を付ける」かということが欠かせないのだと思っています。このブログが時折、日本の歴史に言及しているのもそういう意味でです。
個人的体験という近さ
さて、この話の流れで、今度は茂木さんがこんなことを言っています。非常に具体的な有限な生の中で立ち上がったエピソードというか、プロトコル(情報フォーマット)の積み重ねの中にしか本質は宿らないと思いますね。松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』
と。
至近距離にある個人的体験とそこからはずっと遠くにある客観的な世界の本質のあいだに「脈絡を付ける」ということ。ここに何か本質的な発見が生まれる余地があるのではないかというのはこのところすごく実感として感じられることです。
一般的な知識だけをいくら積み重ねてもどうもうまくいかない。うまくいかないというのは、想像していた範囲でしか効果が得られないという感じなんです。外から拝借した知恵だけではやっぱり足りなくて、そこを自分の体験との絡みでどう落とし込んでいくかってことがすごく大事だなと感じています。
外から拝借する自体はいいんです。外部の知識をどんどん詰め込んでいくのは悪いことではない。いや、それどころか、それをやらない限り、自分の体験さえも活かしきれないと思うんです。それは個人レベルであれば、もうすこし大きい組織や、国といった単位であれ、そうなんじゃないかと思います。外部の知識を組み入れながら、そこで自身に対する問いを投げかけていく。とうぜん、その問いは自身の体験、来歴を考慮したものでないと意味はありません。
一人称と三人称のあいだの転換とでもいったらよいでしょうか。
体験と知識というものがどう混ざりこんで交差するのか。そのことをより深く考えられた人が何かを見出すのかなと思うんです。自分自身の個人的体験や感情と、一般的な知識や客観的な法則とみられているものの間にどう「脈絡を付ける」かというのが、創造的に「考える」ということなのかもしれないなと感じています。
起源という遠さ
「遠くを感じる」ということで松岡さんは、時間の問題をあげています。たとえば『古事記』は、すでに失われつつあった古語をなんとか文字にしたものです。目的は天皇家のルーツや王権の由来を、歴史をさかのぼって明確にしておくために、天武天皇やその側近の命によって、語り部の稗田阿礼が口承する物語を、太安万侶が採録して編集した。松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』
空間的な遠さとは違って、時間的な遠さはまさに遠い。ほんの数分前であっても僕らは二度とそこにアクセスできません。ましてや、自分たちの起源を追おうとすればそこには果てしない遠さが横たわっているのに唖然とします。
起源を求めて『古事記』の前に立っても、そこには『古事記』以前の起源がある。稗田阿礼が口承した起源が。いや、『古事記』だけでなく、あらゆる世界の起源伝承物語はそれ以前の起源を語っています。
それはビッグバン理論でもおなじで、ビッグバンの前は?時間そのものはどこから生まれたのか?と問い始めたとたん起源の問題はあやしくなります。
脈絡を付ける
松岡さんはこうも言っています。始めと終わりにはつねに当惑させるところがあるものです。松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』
と
しかし、どんなに当惑を感じても、その遠さを感じない限り「近さを強化」することもできなません。
卑近な距離にあるものを「隣の芝生は青い」的な視点で眺めても何も生まれませんし、ビー・ヒア・ナウの姿勢で自分だけを頼りにするのも心もとない。かといって、最初に書いたように、三人称の客観的な知性だけに頼ったのでは、本質的な解決はいつまで経っても得られません。
先に書いた「Web屋さんって何をつくるお仕事なんですか? その職業の方は必要なスキルが多いんですか?」という問題の本質もそこにある気がしています。
個人的体験、そこからは離れたところにある技術、それを用いて何を生み出すのかという問いの答えのあいだに、うまく「脈絡を付ける」ことができずにいます。そこに「脈絡を付ける」ための語りがないのです。
LA CULTURA DI VIVRE
先日から紹介している『なぜデザインなのか。』という本のなかで阿部さんがこう語っているのが僕には印象的でした。ものをつくることは、生活文化をつくることである。そこをきっちりおさえているところが強いのだと思います。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
イタリアには「生活文化 LA CULTURA DI VIVRE」という哲学がデザインの根底にあるのだそうです。日常生活を文化として捉え、それを近さと遠さに「脈絡を付ける」ための方法として用いているのではないか、と。
自分たちは何をつくっているのか?あるいは、これからつくっていくのか?という問いに答えるためには、自分たちの仕事を何とどのように「脈絡を付ける」かということを考えることが必要になるだろうと思っています。
そして、個々にバラバラな要素に分かれてしまったものに「脈絡を付ける」方法こそがデザインであり編集なんでしょう。僕らはこの方法こそを再び身につけなきゃいけないんだろうと思うのです。
うーん。書いてみたらすこしは頭のなかが整理されてきました。
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