そのことが昨日、今日と気になっていたのですが、自分で使えるボキャブラリが少ないってのは想像していた以上に致命的に仕事ができる/できないということに関係しているんだなと今日あらためて実感しました。
ボキャブラリが少ない人が仕事ができない3つの理由
ボキャブラリが少ない人が仕事ができなくなる確率が高い理由としてはおそらく以下の3つが主なものとしてあげられるんだと思います。- 他人が話している言葉も馴染みがなくぴんと来なかったりして、話が中途半端にしかわからなかったりまったくわからなかったりして理解力が低くなる
⇒相手を理解できなければ、相手の期待や要求に正しく応えることができない - 事象や物事の整理が必要な場合に、細かな差異を表現する言葉を持たないため、差異のあるものをきちんと整理できない
⇒整理ができなければ問題の構造が正しくつかめず、階層構造的な整理やロジックの組み立てができない - 事象や自分が感じたことにきちんと対応する言葉をもたないために事象や感情の記憶が困難になり、細かな記憶の蓄積ができない
⇒記憶できなければおなじことを繰り返してしまったり、前にやったことを踏まえて作業を行うということができない可能性が高い
どうでしょう? 僕はこれに気づいたとき、語彙の少なさって仕事を効率的にやるためにはかなりネックになるなと感じました。
「「創造的な仕事」に求められる7つの作法」の作法の1つとして挙げた「議事録を書く」なんて、他人の話を理解し、かつ話全体を構造的に整理して見せたり、そもそも話を記憶する力がないと成り立ちませんから。ボキャブラリの少なさというのは、仕事におけるコミュニケーション、協働作業をおそろしく阻害する要因になるのだと感じたのです。
(P.S.語彙には理解語彙と使用語彙があるそう。聞いたときはわかっても議事録を書いたりする際には「あれ、どんな話なんだっけ?」ていうことになるのは使用語彙が貧弱なせいかもね)
記憶すこと、わかることとボキャブラリの関係
少し前に紹介した『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』のなかで山鳥重さんはこう書いています。記憶心像はただそれだけでは掴まえがたいところがあります。なんとなく印象に残る心像が浮かんだとしても、たいていは次の瞬間には消えてしまいます。あれをもう一度呼び出したいと思っても手がかりはありません。(中略)名前にはこの掴まえがたい記憶心象を掴まえる働きがあります。それ自体では不安定ですが、名前によって心像が安定するのです。
名前は印象として心にあらわれた記憶心像を安定させる働きがある。つまり、この名前=ボキャブラリが少なければ、記憶の安定がむずかしくなるのです。
また、山鳥さんはこんなことも書いています。
言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、頭の方がそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と問いかけなくなります。(中略)その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。心から好奇心が失われ、心になまげぐせがつきます。
ボキャブラリが少ないというのは、この「それ何?」という問いかけが少ない状態なんだと思います。
新しい語に接する機会はそれなりに誰にでもあることだと思いますが、その言葉に対して「それ何?」がなければボキャブラリは増えません。新しい言葉でなくとも、言葉ひとつひとつにその言葉が自分に馴染むくらいに-つまり自分のボキャブラリになるくらいにー記号の意味を問うことをしなければボキャブラリは増えません。
そして、そのボキャブラリが増えない状態というのが、好奇心が少ない状態なのだと思います。
仕事においては「自分が何がわかっていないかをわかる」ことが大事
そうなると自分が何がわかっていないかをわかろうとしない状態が生まれます。以前から書いているように「自分が何がわかっていないかをわかる」ということは、デザインをしたり企画を立てたりする上で非常に大切なことです。好奇心が失われた状態では、この「自分が何がわかっていないかをわかる」ということさえままならないくなります。つまり「わかろう」という意欲が全体的に失われているのですから、自分に対する問いかけも減ってしまうのです。これでは問題を定義し解決案を探るというデザインや企画ができないのは当然です。
そして、デザイン力や企画力はどんな仕事をやっていても欠かせない事柄です。デザイナーや企画屋さんだけがデザインや企画の仕事をするわけではありません。
与えられた仕事を与えられた期間内に終わらせるのも、結局は仕事のデザイン力、計画力ありきです。問題に対して解決策を見出すのがデザイン、企画、計画です。ですから企画やデザインのない仕事なんてないんです。
その意味で「自分が何がわかっていないかをわかる」というデザインや企画の問題発見~解決力、つまり問題は何かを定義する力に関わる力とその力と深い関係にあるボキャブラリの少なさが、あらゆる仕事のできる/できないに重大な問題として関わってきてしまうのだと思うのです。
だからこそ「好奇心とは独創的な問いを発見する情熱である」という話になるんでしょう。
もちろん、独創的であることはふつうに仕事をする上では必須ではありませんが、独創的ではないにせよ問いを発見すること自体をどんな仕事でも必要なことです。
つまり「自分は何がわかっていないか?」と問う力、姿勢がです。
ボキャブラリを増やす訓練
「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」では言葉以外の頭のなかの心像を瞬時に表現する訓練としてのクロッキーを紹介しましたが、実は頭に浮かんだ心像を言葉に固定させるためのボキャブラリ増加の訓練というのも必要なことだと思います。そして、それは訓練であり、自然に生活していれば身につくものではなく、意図的に非日常的な場に身を置く以外に身体に身につけることはできなものだと思っています。
具体的には、以下のことが訓練になると思っています。
- 読み慣れない(ジャンルの)本を読む:ようは母国語(日本語)において他国語の本を読むような感覚を自分に味合わせるということです。他国語の本を読む場合はいちいち単語の意味を調べますし、その単語を覚えようともするでしょう。そういう感覚を日本語の本を読む中で体験するのです。僕自身は学生時代、卒業直後に大量に哲学書を読んだ体験-読んでも言葉や文章のひとつひとつの理解にすごく苦労した体験-がいまに活きているなと感じています。哲学書以外だと明治、大正期の小説などを読むってのもありですね。
- 自分の得意分野でない領域の話を文章として書く:読み書きが語学力の基本だとしたら、読むだけではなく書くこともボキャブラリを増やす訓練になると思います。それには普段自分が慣れ親しんでいる分野の話を書くのでは新しい語を文章のなかに登場させる機会は少ないはずです。意図的に普段使い慣れない言葉を使うよう自分を追い込むためには、完全に理解していなかったり、書くのが困難な得意分野以外のことを文章にまとめることを訓練としてやったほうがいいと思います。自分自身では完全に理解しきれていない本の書評をブログに書く場合にそういう経験をその都度しているように思います。
- とにかく人に説明する練習、人と議論をする練習をする:読む、書くときたら、最後はやっぱり話すです。ただ、自分自身の経験からすると、これは訓練の最後にしたほうがいいと思います。いまでこそ、こんなにブログを毎日書けるようになった僕ですが、昔からこうだったわけじゃありません。人と話をするのだってあんまり得意じゃありませんでしたし、人前で何かを発表するときはすごく緊張して何を話しているのかわからなくなったものです。でも、それがなおったのは、文章を書くようになってからです。文章を書けるようになったのは本をたくさん読むようになったからです。哲学書を読めるようになり、次に文章が書けるようになり、そして、人前で話をしたり他人に何かを説明するのが苦ではなくなりました。人によるところもあるかもしれませんが、おそらくこの順番が自信をつけるという意味でよいのではないかと思います。
まぁ、いずれにしても積極的な努力=訓練なくして、技術など身につきません。そして、ボキャブラリを増やすというのは、おそらく仕事の技術としてはすごく根本的なものなんだと思います。
「求められるものは3つだけ」? いやいや、とんでもない。ましてや17なんてことはありえません。自分で書いた7つも多すぎ!求められるのはたった1つしかないのかもしれません。ボキャブラリをいかに増やすかということです。
コミュニケーションも、コラボレーションも、好奇心と問題発見も、交渉力も、ファシリテーションも、ニーズを見つける目も根本になくてはならないのはボキャブラリの多さだと感じました。それがなければ「わかる」ことができないのです、人間は。
どんなに専門的な技術を身につけたとしても、仕事の効率をあげるのに不可欠なボキャブラリの多さが欠けていたら、仕事を問題なくこなしていくのはむずかしいのだろうと思いました。
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