速度を速めるとゆっくりできる

あっ、なんかちょっと気がついちゃったかも。
きっと速度を早めるとゆっくりできるんですよ。
何の速度を早めるかって? そりゃ、決まってます。アウトプットの速度をですよ。

これまでも以下のように、アウトプットの速度、効率的な思考や情報収集、スピードアップの秘訣について考えたエントリーをアップしてきました。


とにかくアウトプットする速度はいくら速めても速すぎるということはないと思います。アウトプットの量こそがものをいうのだと思います。

間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」を書いた際に、そんなことを言っても間違ったアウトプットを出すと怒られる、みたいな意見がありましたが、だったら怒られないようにアウトプットする先を変えたり、アウトプットの仕方自体を変えればいいだけです。

中途半端なものをあたかも最終形であるかのようにアウトプットするから怒られるのであって、むしろ、中途半端な状態を中間報告として出すことに価値があるような形でアウトプットすることを考えればいいわけです。

その意味ではアウトプットの形やタイミングに関しても凝り固まった頭を柔軟にするため、その種類と方法についてバリエーションがもたせられるよう、普段から研究しておいたほうがいいでしょう。

で、そういう努力を重ねて、スピーディーで大量のアウトプットをコンスタントに出せるようになると、実は普段の時間の使い方に余裕ができてきて、最終形を求められるまでにゆっくりできるようなゆとりが生まれるんです。今日はそのことについて書いてみようと思っています。

インプット/処理/アウトプット

と、そんな風に思った理由を説明する前に、ちょっと寄り道。
後々僕のいってる意味がわかるよう、はじめに僕がインプット/処理/アウトプットという一連の流れをどう捉えているかをいったん整理しときます。

まずは答え。
インプット/処理/アウトプット。それらはまったくもって一連の流れなんかじゃないよねってのが僕の考え。インプットだとか処理だとかってきわめてコンピュータ的な発想であって、人間の認知的機能としてあるのは実はアウトプット=生成だけじゃないかって考えます。

例えば、スクリーンに映った赤い色を知覚し感覚をおぼえる場合。

この感覚は、明らかに彼が作り出すものだ。それは、彼がスクリーンを見遣るまでは存在せず、目を閉じれば消えてなくなる。

この場合、意識に生じる「赤い」という感覚はあたかもインプットのように考えられていますが、実はこれ、ニコラス・ハンフリーがいうように「彼が作り出すもの」=アウトプット=生成にほかならないと思っています。感じることそれ自体が生成であると。

一方、アフォーダンス理論では、情報は人間がつくりだすものではなく、元々周囲にあるものを何の加工もなく直接手に入れるものだとしています。

生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。
佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』

情報を知覚することと、何かを感じたりわかったりすること。この2つは別物なのでしょう。
すべての行動がいちいち意識して行われていることではないということからも知覚は必ずしも意識にのぼる必要はありませんが、感覚や理解のほうはつねに意識にのぼってくるもの、いや、意識そのものです。

さまざまなアウトプットだけがある

山鳥重さんは『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』のなかで、

生きるということ自体が情報収集なのです。それが意識化された水準にまで高められたのが心理現象です。意識は情報収集のための装置です。情報収集とは、結局のところ秩序を生み出すための働きです。

と書いていますが、アフォーダンス理論の関係から考えると、意識は「情報収集のための装置」であるというより「情報整理のための装置」ではないかと僕は考えます。ようするに感覚や理解のための情報整理のための装置であり、それそのものが生成=アウトプットされるものと捉えたほうがよいのではないか、と。
あるいは、意識それ自体が自分自身のなかのコミュニケーションツールと捉えてもよいでしょう。人は他人とコミュニケーションする以前に、意識することで自分自身とコミュニケーションしているのだ、と。

脳は概念および知覚を再入力結合を介して記憶や新たな入力に結びつけ、なんとしてでも、自分にとって意味の通る一貫したコヒーレントな"風景"を描かずにはいられないのである。

脳が"自分自身"のために描くコヒーレント(整合性・論理的一貫性)な風景。それこそが意識であり、意識とはそれ自体が生成されるアウトプットです。このアウトプットを用いて僕は創造力を発揮する。しかし、その創造性もまたある特定な用途におけるコヒーレントな"風景"にすぎません。

創造性とは、簡単にいえば、類推によって予測をたてる能力にすぎない。

別に僕らは外からのインプットを処理して何を創造的にアウトプットしているわけではないのです。あくまで自分の脳が描く=アウトプットするコヒーレントな"風景"をさらに加工して(=類推して)別の風景(=予測)を描いているのにすぎません。

こう捉えると、インプット/処理/アウトプットという区別に意味はなく、すべては様々なアウトプットを生成するバリエーションにすぎないんだと思うのです。
そして、このアウトプット観でいけば、本を読むのもアウトプット、他人に何かを学ぶのもアウトプット、やったことのないことにチャレンジするのもアウトプットなわけです。

アウトプットの速度を速めるとゆっくりできる余裕が生まれる

さて、ずいぶん遠回りをしましたけど、ここからが本題。

なぜ「アウトプットの速度を速めるとゆっくりできる余裕が生まれるのか」。

先にも書いたとおり、脳が行う意識的な処理はそもそも"自分自身"のために行うアウトプットであり、コミュニケーションの手段です。そのことで僕らは何かを感じたり、わかったりします。

で、この頭のなかだけでほとんど常に行っているアウトプット、コミュニケーションの作業を外部化する。例えば、他人に考えたことを教えたり、ブログに書いたり。外部化しようとするとたいていは「わかる」がさらにレベルアップします。人に教えたり文章や図にしたりすると、より「わかる」ようになります。ようするに"風景"がより鮮明になる。当たり前ですよね、外化されることでそれはものとして知覚可能なものになるのですから。
そして、これもとうぜんなのですが、外化することで他人にも知覚可能になる。知覚可能なものは他人にとってもアウトプット=生成の機会を与えます。

大事なのはアウトプットする/されることで、コヒーレントな状態、整合性・論理的一貫性のある状態が生み出されるということです。もちろん、その中身は事実と比較すれば間違っている場合もあるでしょう。整合性や論理的一貫性はあっても事実誤認している場合も。

でもね、やっぱり重要なのは、たとえ事実とはあっていなくても(つまり間違った認識が含まれても)、ある整合性・論理的一貫性のなかで「類推によって予測をたてる」創造性を発揮できる状態を保ったほうがよいということです。さらにいえばその創造性の結果をいきなり外部(他人)に問うのではなくて、こまめなアウトプットを繰り返したうえで、つまり相手にも「ある整合性・論理的一貫性」がある程度は共有できた状態で問う方が効率的だろうということです。
イメージとしては下の2つの図で、細かな梁があるのとないのとではどちらが構造的に安定しやすいかということです。



アウトプット速度を速め、こまめに量を追及するということで僕がイメージしているのは上のような状態をつくりだすことです。

さらにいえば、アウトプットが細かくできれば小さなモジュールをつくりだすことにもつながり、そのモジュールの組み合わせで、類推から予測のバリエーションを増やすことも可能になります。



つまり創造性を発揮しやすくなり、異なる問題への対応が困難であることが少なくなり、対応自体が迅速になる。結果、間違いが見つかったとしても素早く対応できるので、アウトプット時にいちいち間違いを気にしている必要も減ってくるのです。
このモジュール化を行うようなアウトプットの変換こそが、はじめに書いた「怒られないアウトプット」のバリエーションの1つの形なんだと思います。

アウトプットの速度を速めるとゆっくりできる余裕が生まれる

ようは上記のような形でアウトプットの速度を速め、その量をも増やすことで、モジュール化を促し、かつ、使えるモジュールのバリエーションが増えることで創造性のバリエーションが多くなり、結果、さまざまな問題への対応が迅速になるということは、自分のペースで仕事ができるようになるということにつながります。

ゆっくりできるというのは結局、ほかの誰かの時間に自分がのるのではなく、自分自身の時間のなかに自分をおくことができた状態を指すのではないかと僕は考えます。
自分のペースで自分のアウトプットを出せる状態にあれば、一定時間のなかにどれだけやることがつまっているかはあまり関係なく、ゆとりが生まれます。やらされている感や他人のペースに付き合わされることが慌ただしさや忙しさを感じさせるのであって、ペースとそこで提出するアウトプットの内容さえ、自分の側で握れていればゆっくりした穏やかな時間を掻き乱される確率は低くなるのではないでしょうか。

以下のようなケースを想像してみてください。

  • 突然、何かを執筆したり講演したりしなければいけなくなった
  • ある期間までに自社のWebサイトのリニューアルを行わなくてはいけなくなった
  • 次期、商品の企画開発を担当することになった

いずれのケースも普段からこまめにアウトプットを重ねていればそれほど慌てる必要はないことです。

執筆や講演もそれまでに書き溜めたものがあれば、それをベースに編集するだけで事足ります。Webサイトのリニューアルだって、前回のリニューアル後、こまめにリサーチや検証を定期的に継続的に行っていれば最初の問題定義や調査の作業の多くを省くことができるはずです。新商品の企画開発だってそれとおなじでしょう。

ようするにゆとりがないのはスタートの時期と普段の暮らし方、仕事の仕方を間違えているからです。「スタートを早めるためには、意図的に過去の経験の蓄積を増やさなくてはいけない」し、過去の経験と増やすというのはまぎれもなく小さなモジュールを生みだすアウトプットを常日頃から行うということにほかなりません。

備えがないから憂いが生じるだけです。備えがあればむしろゆとりが生じるのです。

   

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この記事へのコメント

  • Jyro

    >インプット/処理/アウトプット
    「処理」ってよりも、他の脳細胞とのリンクみたいな感じじゃないかなあ。で、そのリンクされた脳細胞は、いろんな経路でまた、最初の細胞とリンクしちゃってループしたりとか。

    最終的に身体を動かす脳細胞に、意識的につなげて、そこで脳細胞のリンクの繰り返しを止める必要がある。
    ってことは、タイプしたり、書き出したり、運動したりが重要。

    みたいに考えています。
    2007年12月12日 00:58
  • take

    Ruby On Railsの検索していてデザインパターンでこちらに来ました。
    このような文書を読む、読みふけることがない日々をすごしていました。。。つまり、感動しました。アウトプットを早くはなんとなく気づいてましたが、はっきりしました。アウトプットが多いと情報も集まるっていうのも納得です。ブックマークをつけましたのでちょくちょく来ます。

    2009年11月10日 23:23
  • Minoru Ueda

    とても刺激になりました。ありがとうございます。
    音読は学習に効果がある、と言いますし、
    自分でも体感していますが、それも一番素早いアウトプットの一つの形なのかな、と思いました。
    2013年08月01日 03:29

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