「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学/山鳥重

「わかる」とはどういうことなのか? このことに疑問を感じたのは、すでに「3つの種類の「わかる」:「わかる」っていうのはどういうことなのか?」で書いたとおり。
では、なんで「わかる」とはどういうことか?といことに疑問をもったかといえば、それはわからなければデザインができないし、デザインしてもそれを使う人が使い方やそのよさをわからなければきっと使ってもらえるようにはならないと思うからです。

「わかる」ということはデザインする上では大事な要素で、使い方がわかるようにデザインしたり、そのもののよさをわかるようにデザインしたりするのは、最低限デザイナー(デザイン・チーム)が考えなくてはいけない事柄なんだろうなと思うからです。

あとはやっぱり好奇心の問題でしょうか。どうも好奇心がすくない人が多い気がしているので。

そんなこともあって読み始めたこの本。
不思議なことにどういうわけか上記のようなことを考える以前にamazonに注文してあったんだよね。いや、もしかすると注文したから、こんなことを考えはじめたのかもしれませんけど。

では、読んで考えたことをパラパラと。

「わからない」は「わかる」ための第一歩

まず僕がこの本を読んで「わかる」という問題でいちばん腑に落ちたのが以下の文章。

言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、頭の方がそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と問いかけなくなります。(中略)その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。心から好奇心が失われ、心になまげぐせがつきます。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

僕は、以前から自分が何をわかっていないかを知ることが大事だと書いています。
それはユーザー調査やユーザーテストの場面でもいえることです。ユーザーの行動を目の前にして、自分がユーザーとデザインの関係で何を見落とし、わかっていなかったかを発見することが大事だと思っています。
それは「動機としての無知」というエントリーでも書いたとおり、「わからない」は「わかる」ための第一歩になるからです。

著者も、

わかるためには「わからない何か」がなくてはなりません。「わからない何か」が自分の中に立ち現れるからこそ、「わかろう」とする心の働きも生まれるのです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

と書いています。

しかし、上に引用したような「それ何?」と問いかけなくなる状態に陥ってしまうと、「わかる」ためのきっかけとなる「わからない」が働くなる。好奇心が失われ、理解しようとする意思が働かなくなる。「わかる」ことができなくなるのだと思います。

対応する記憶心像をもたない言葉

著者は「記憶心像はただそれだけでは掴まえがたいところ」があり、「なんとなく印象に残る心像が浮かんだとしても、たいていは次の瞬間には消えてしまいます」と書いています。そして「名前にはこの掴まえがたい記憶心像を掴まえる働きがあります」と言っている。

その上で「IT革命」などのような新しい言葉が数多く生まれると、それまでの日本語社会には対応する概念のない言葉が、その言葉のみが流通し、記憶心像のうかばない言葉を前に混乱してしまう人が増える傾向があることを示唆しています。

Web2.0、ユーザビリティ、ユーザーエクスペリエンスなど。どれも記憶心像が浮かびにくい言葉です。

記号だけは覚えていますが、その相手方であるはずの記憶心像は曖昧なままなのです。このような言葉の使われ方は心にとって大変危険なことです。心の整理に役立つはずの言葉が、むしろ心を混乱させます。心の構造がいいかげんになってしまいます。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

次々に生まれる新しい言葉を前に、心は混乱します。そのあげくにはじめに引用したような、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と問いかけなくなる好奇心のない状態が生まれます。

でも、だからといって、それを新しい言葉が次から次へと生まれてくる現代社会のせいにしていても埒があきません。聞き慣れない言葉に出会ったら調べればいいのです。だって、現代社会は新しい言葉が次々生まれてくるだけでなく、その言葉を解説してくれる情報だって次々生まれるのだし、それを探す強力なツールとしてのインターネット-検索ツールというものがあるのですから。
それをやらないのは単に心のトレーニングをおろそかにしているだけなんだと思います。

健康な心はわかろうとする

わかろうとしないのは僕は病気だと思います。心の病気。病気とまではいかないまでも明らかに心の体力不足、筋力不足です。

著者も「意味がわからないと、わかりたいと思うのは心の傾向です」と書いています。
さらには、

生きるということ自体が情報収集なのです。それが意識化された水準にまで高められたのが心理現象です。意識は情報収集のための装置です。情報収集とは、結局のところ秩序を生み出すための働きです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

と書いています。

もちろん、この秩序は自分の心にとっての秩序です。

「わかった!」からと言って、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。わかったと感じるのです。あるいはわからないと感じるのです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

わかる/わからないは、自分の心のなかでの整理ができたかどうかの問題です。必ずしもそれは現実に即していなくても、事実とあっていなくてもいいのです。その意味では「3つの種類の「わかる」:「わかる」っていうのはどういうことなのか?」での3つの分類のうちの2番目の主観的な「わかる」がいちばんこれに近いのでしょう。

心理過程はすべて記憶の重なりです。知らず知らずに覚えこんだか、意識して覚えこんだのかの違いはあっても、覚えこんだものが積みあがった結果が現在の心です。覚えることに嫌悪感を持たないようにしてください。記憶が嫌がっている自分自身が記憶の上に成り立っているのです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

わかる/わからないは、自分を成り立たせている記憶の蓄積や整理を助けてくれる大事な心のバロメータなのでしょう。
好奇心を失い、わかる/わからないを感じられなくなるということは、この自分を成り立たせている基盤の維持をむずかしくしてしまいます。だって、自分と向き合い自分自身のことをわかるかわからないかということ自体、こうした心の働きにほかならないのですから。

経験の蓄積と「わかる」

自分自身であろうと、自分以外の他人や物事であろうと、わからないものに疑問を抱き、わかろうとしないのは、自分の心をどんどん脆弱にしてしまう結果につながります。心が脆弱だとなにか新しい問題が起きたとき、どうしていいかわからずパニックとなり、何の対処もできないという状態に陥るのではないでしょうか。

生命は自然に発生しません。パスツールが証明した通りです。知識だって同じです。自然には生じません。網の目を作り上げる人と、作りあげない人がいる、というだけの差です。ただそれだけのことです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

あいつにはE=mc2がわかっているみたいだが、俺はわからない、ということもあるでしょう。だからといって、悲観することはまったくありません。その人の頭にはわかるための素材が溜めこまれているのです。その気になれば誰でも溜められます。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

「網の目を作り上げる人と、作りあげない人がいる、というだけの差」。「その気になれば誰でも溜められます」。本当にそういうことだと思います。

経験があるからわかるのです。
その経験は過去に蓄積された経験でもいいし、たったいまの経験でもいい。
ただ、経験することを拒んだのでは、何もわかるようにはならないのです。

「わかる」こととデザイン

あるユーザーインターフェイスを見て「わかった」と感じることがあります。逆に「わからない」と感じることもあります。どちらの場合も目の前のインターフェイスがもたらす経験と同時に、わかった/わかならいと感じたユーザーの過去の経験が影響しています。
インターフェイス上のある情報をユーザーが気にする場合でも、元々ユーザーがその情報を必要としていたか、そこにあるから気になったのかは簡単には判断できません。

問題はわかる/わからないにはそうしたユーザーの側の複雑な経験が絡んでいることをわからない人が簡単にユーザーインターフェイスの良し悪しを判断してしまうことです。

著者は「わかっていることは運動に変換できますが、わかっていないことは変換できません」と書いています。
「ユーザーの側の複雑な経験が絡んでいることをわからない人」にはそれを動きの軌跡としてのデザインには落とし込めません。野球の内野手と外野手の違いがわかっていない人には、そのプレーができないのと同時に、内野手用のグローブと外野手用のグローブの違いをできないのです。

だからこそ、デザイナーはユーザーの経験というものをわからないといけない。ユーザーの経験の違いによってユーザーの理解が変わるということをわからないといけない。ユーザーの行動と経験の関係を理解し、その行動をデザインに落とし込まないといけません。
デザインとは運動の軌跡にほかならないのですから。

運動化するということは、形をはっきりするということです。はっきりさせないと運動になりません。あやふやがあやふやでなくなる、ということです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

そう。運動がわかっていないから、形=デザインがあやふやなのです。
何がわかっていないかといえば、ユーザーの動きなのです。
そして、ユーザーの動きをわかるためには、とうぜん、ユーザーの動きに関する経験値をデザイン・チームが増やすしかないのです。

まぁ、こういうこと↓でしょう。

人間は生物です。生物の特徴は生きることです。それも自分で生き抜くことです。知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物にすぎません。実地の役には立たないことが多いのです。
山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』

最後に一言。
サブタイトルに「認識の脳科学」とありますけど、この本では特に脳科学的なアプローチで「認識」を扱っているわけではありません。サブタイトルには偽りありですので、「脳科学」を期待してると「なんだよ」って思ってしまうでしょう。



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