3つの種類の「わかる」:「わかる」っていうのはどういうことなのか?

昨日、ふと疑問に思ったことがあります。
それは、「わかる」っていうのはどういうことなのか?ということです。

「わかる」っていうのにもいろいろあるなと思っていて、まずわかりやすいところからいくと「再認」や「再生」っていう意味での「わかる」がある。

1つ目の「わかる」:再認と再生

「再認」は、例えば、ある商品を見てそれが前に見たのと同じ商品だと認識できることを指し、「再生」はその商品が属する商品カテゴリーについて聞いた際にその商品を思い浮かべることができることを指します。

前に「パースの記号学とホフマイヤーの生命記号論とブランドの関連性」というエントリーでも書いたとおり、この「再認」と「再生」に関しては、戦略的ブランド・マネジメントに関する著名な研究者であるケビン・レーン・ケラー教授が「ブランド再認」と「ブランド再生」という言い方でブランド知識の重要な要素として捉えています。つまり、ルイ・ヴィトンのバッグが目の前に置かれたとき、それをルイ・ヴィトンのバッグだと再認できるか、バッグで有名なブランドは?と問われてルイ・ヴィトンがすぐに再生できるかという意味でブランドが「わかる」かということです。

まぁ、これはある記号(Web上のボタンでもいいし、ドアの取っ手や水道の蛇口についたレバーでもいい)の可視性(またはアフォーダンス)に関わる認知、「わかる」ということですよね。

この「わかる」はまだわかりやすいと僕は思っています。
つまり、記号がその対象の意味とどれだけ結びついているか、それを見た人が記号の意味を解釈できるかということに関わる「わかる」だと思うからです。
この「わかる」はデザインされた人工物であれば、元々人間がもっている生態学的認知の傾向や社会的ルールに依存するものであるはずです。

この「わかる」はデザインする上でもまだわかりやすい類いの「わかる」です。ユーザーが「わかる」かどうかもユーザーテストなどで判断しやすい類いのものです。

2つ目の「わかる」:もののよさが「わかる」

僕を悩ませた「わかる」はそれとは違うものだと思います。
僕を悩ませた「わかる」は、例えば、目利きのようなものの良さが「わかる」とか、味のよさが「わかる」とか、そういった類いの「わかる」です。

この「わかる」は先の「再認」や「再生」に比べてはるかに主観的です。「再認」や「再生」であれば先に書いたように他人が「わかった」かどうかをテストできます。しかし、この「わかる」はテストのしようがない。誰かがあるもののよさを「わかった」かどうかなど、調べようがない。
一般的によいとされるものをただよいというだけなら、それは「再認」や「再生」です。しかし、もののよさを「わかった」り、他人のありがたみを「わかった」りするのはそれとは違うんではないかと思うのです。

この「わかる」はいったい何なのか?
すくなくとも、この「わかる」はデザインを考えるうえでも非常に扱いがむずかしい類いの「わかる」です。誰でも「わかる」ようなよさや味にするのか、あるいは玄人好みのわかる人にしかわからない「わかる」ものにするのか。いや、それともただの物知り顔の玄人では見抜けないような斬新な「わかる」をデザインするのか。では、その場合の「わかる」とはいったい何なのか。

そして、当然、この「わかる」は「自分をつくる:其の3.自分の「好き=数奇」をつくる3つのポイント」などで書いている好き=数寄という話とつながってきます。数寄を研くということで主観的に何が「わかる」ようになっているのか。僕がいま興味があるのはここかも。

3つ目の「わかる」:「うん。わかるわかる」って共感する

もうひとつ「うん。わかるわかる」って共感する類いの「わかる」もあるかなと思います。

これはときには単なる「再認」や「再生」だったりすることもあると思いますが、共感としての「わかる」はただそれだけではないだろうと思っています。
他人の痛みやつらさに共感したり、喜びや悲しみを分かち合う「わかる」は決して「再認」や「再生」ではないでしょう。

この「わかる」は本当の意味では「わかっていない」のだということだってできます。他人の痛みを本当に「わかる」わけではないし、同じ出来事に喜んでいたとしても他人の喜びと自分の喜びが同じものであるとは限らないのですから。

それでもまぎれもなく共感として「わかる」ということはある。これも先の2番目の「わかる」と同様に、デザイン(=計画、設計)に落とし込むのがむずかしい類いの「わかる」だな、と。

3つの「わかる」:三人称、一人称、二人称

で、かなり強引に3つの「わかる」を整理してみると、こんな風に言えるのではないかなって思います。

  • 「再認」や「再生」としての「わかる」:三人称の「わかる」
  • もののよさ、食べ物の味のよさが「わかる」:一人称の「わかる」
  • 痛みや喜びへの共感:二人称の「わかる」

こんな風に整理すると、この問題が前に紹介した郡司ペギオ-幸夫さんの『生きていることの科学』の以下のような問題意識と重なってくるのかななんて思います。

世界は静的な幾何学として用意されていて、三人称的描像から一人称的描像へ、幾何学的変換として転倒が可能になってくる。
対して、二人称ってどういう概念か。それは、齟齬のあるわたしと他者の間の、動的な交渉を通してはじめて出現するもんだよね。だから、転倒が可能な世界像、もっと言うと、通約不可能な一人称(主観)と三人称(客観)が対立軸を成す世界像において、原理的に二人称は排除されちゃう。
痛みっていうのは典型的な二人称の問題だって言ったけど、だから痛みはここに入り込む余地がないんだよ。

と、引用したからといって、いまのところ僕が何かを「わかっている」わけではありません。
このあたりは「情報リテラシー再考:「理解すること」と「感じること」の統合」や「情報を理解する/情報を感じとる、あるいは、客観的判断/主観的判断」で書いた問題と重なるところがあるなと思ったり、ちょうど買ってあった山鳥重さんの『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』や市川伸一さんの『考えることの科学―推論の認知心理学への招待』を読んでみようかなと思っているというだけの中間報告です。

でも、「わかる」ってことについて考えることは、人間中心のデザインをするうえでは欠かせない思考だろうなとは思っています。

   

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