いや、本来、その2つはデザインの裏表であり、決して切り離せるわけではないと思っています。
しかし、それでも、いま、人間中心のデザインのアプローチについて考えなくてはいけない時期だと感じています。そこから考えないとデザインやものづくりの本来が忘れられたままになってしまうような気がするから。
もの自体への目利きの力が弱いからなのか、ものを巡る人の好き嫌いや感じ方に関する感覚が弱いせいなのか、あるいは、そもそも自分自身でものの良し悪しをわかる力が磨かれていないせいなのか、どうもものづくりにおいて人間中心の発想が欠けてしまっているように感じます。
そして、人間中心の発想が欠けるから、ものに対する人の執着や好みを理解していないようなデザインが生まれてしまうのだろうと感じています。結果、深みに欠ける表面的なデザインが生まれてしまい、すぐに飽きられ捨てられるようなものが氾濫してしまうのではないか、と。
小さい頃からずーっと何かを創ってきたよ
ものづくりの作業をするなかで、もの自体と直接語りあいながら、それを使う人のことを考えることができる。そういうものづくりをする人がすくないのではないか。
そんなことをあらためて思ったのは、『Free&Easy January 2008』でゴローズの高橋吾郎さんのインタビューを読んだからでもあります。
僕のことで言うと、小さい頃からずーっと何かを創ってきたよ。失敗すれば自分でその理由がよく分かる。うまくいけば、もっとその腕がよくなる。頭よりも手が先に動いてしまうの。良い材料を見つけて、手でいじっているうちに形になるんだ。「高橋吾郎、魂を語る」『Free&Easy January 2008』
高橋吾郎さんがこう語るのは、インタビュアーの「最近、息子が平気で父親の背中をナイフで刺すような事件が多発していますね」という問いかけに対してです。「そんな世の中はどうすればなくなるんでしょうか?」という問いに高橋吾郎さんは自身のものづくりの歴史について語り始めます。
小学校の頃からずっとそうだった。当時は東京の北区にも山があって、湧き水もわいていたよ。終戦後だったでしょ、そこら辺に壊れた乳母車なんかがおっこちていて、それを拾ってきて幌馬車に改造してインディアンごっこをしていた。そういうことをずっと自分の手でやってきたから(何が良くて悪いかも)わかったんじゃないかな。頭から考えてしまうと良くないと思うな。「高橋吾郎、魂を語る」『Free&Easy January 2008』
人間中心のデザインにおける、観察によるユーザー行動の調査も、プロトタイピングも、ユーザーテストも決して頭で考えることじゃありません。
手を使い、身体を使い、自分の感覚で、ものや人間をわかっていく作業です。
ずっと前に書いた「企業のWebマスターのための「せめてこれだけは使っておこう」」というエントリーだって、結局は、Webでのマーケティングやコミュニケーションをわかろうと思ったら考えるんじゃなく、自分でブログを書いたり、自分のWebサイトを運用してみる中で学んでいきましょうよってことでした。
何かのマニュアルをあてにするのではなく、自分で体験して自分の身体で学ぶことが大切です。
もちろん、マニュアルを使うのは悪いことではない。誰かの真似をしてみるのも悪いことではない。だって、誰かの真似をするということはその人に経緯をはらうことでもあるのだから。その人の仕事を経緯を払いながら感じるということだから。
ベストプラクティスという手法に否定的な人もいますが、僕は決して他人の仕事を参照することは無意味なことではないと思います。ただ、最後は自分の感覚、自分が感じたことを大事にしなきゃいけない。それを忘れなければいい。いや、それを忘れた人が他人の仕事に経緯を払うことができず、自分の殻にとじこもってしまうんじゃないでしょうか。
自分の居場所
自分の感覚、自分が感じたことを大事にし、「自分の仕事」を見つけられると、それが自分の居場所になる。そういえば、西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』で紹介されていた、バラフライスツールで有名な柳宗理さんもスケッチも描かずにいきなり模型材料を手にとるとインタビューに答えていました。
ウチの兄貴たちはみんな学業優秀だったの。だから僕はいつも言われたよ。「兄貴たちはできた」って。でも、僕には創るものがあった。幌馬車もそうだし、模型飛行機もそう。何か傍にあるものを利用して創る。自分の居場所だよね。そこで好きなことをやって、みんなに喜んでもらっていたよ。「高橋吾郎、魂を語る」『Free&Easy January 2008』
僕はこの「みんなに喜んでもらっていたよ」という感覚が好きです。誰でも自分の仕事を他人に喜んでもらえればうれしく感じるんじゃないかと思うのですが、どうも普段、なにげなく仕事をしてしまっているとその感覚を忘れてしまいがちです。ましてや、本当に自分たちがつくったものを、それを使う人が喜んでくれるという感覚は、多くのものづくりの現場が忘れてしまっている感覚なんじゃないかと思います。
気持ちひとつなの
でも、自分の目の前に、それを使う人がいないというのは単なる言い訳じゃないかって思います。東京は都会だけど、自然には会えるから。ほら、空をみてごらん。東京でもこんなにきれいな空が広がっているんだ。気持ちひとつなの。ずっと見ていなくてもいいの。パッと見るだけですごく気持ちよくなるだろ? それを自分で探して見つけることが大事。アメリカに行けなくても、ここには自然があるんだよ。「高橋吾郎、魂を語る」『Free&Easy January 2008』
高橋吾郎さんは、若い頃、ネイティブアメリカンから「イエローイーグル(東から来た鷲)」というインディアンネームをもらい、サンダンスという過酷な儀式も望んで行っています。アメリカの自然が好きでバイクでロングツーリングを行ったりもしています。
そんな吾郎さんが「東京は都会だけど、自然には会える」という。「気持ちひとつ」で「ずっと見ていなくてもいい」という。目の前にないからというのは理由にならないんだなって思います。「気持ちひとつ」で使う人の喜びや落胆も感じることはできるんだと思います。むしろ、「それを自分で探して見つけることが大事」なんだろうって。
自分の居場所をつくるということは、同時に他人が集う場所をつくること
ものづくりって、そんな想像力や、人に対する想いとか、手を使って学ぶことだとか、そういうことで自分を磨いていく、自分の居場所をつくっていくことなんだろうなと思います。単に納期があるからつくらなきゃいけない、売上をあげるために新しい商品を開発しなきゃいけないってことだけではないと思います。だって、そんなものは誰も欲しがらないから。そんなものには魂が宿っていないから。
きっと自分の居場所をつくるということは、同時に他人が集う場所をつくることともつながっているんだろうなって思います。誰かの喜びに惹かれて他人が集まり、集まった場所で喜びが分け与えられる。その中心にものがある。つくられたものがある。そうした場がかつての茶席や連歌会の席であったりしたのでしょうし、能や歌舞伎が舞われる場所であったんじゃないか、と。
高橋吾郎さんのつくるものは、決して日本的なものではなく、ネイティブアメリカンの香りのするシルバー&レザーのアクセサリーあやバッグなどですが、そこには日本の文化がはぐくんできた、おもてなしの場の文化を感じます。
「おもてなしのための主人の覚悟とユーザーエクスペリエンスのデザイン」で考えた、おもてなしのための主人の覚悟っていうのも結局そういうことなんだろうなって思いました。
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この記事へのコメント
fin
hirokiさんから紹介していただいたハーバート・サイモン教授の「システムの科学」を読みました。すごい本です。かめばかむほど、味がでるとういうか、正直難しい部分もありわからないことも多いですが、読み返せば読み返すほどうなります。もうボロボロに・・・。一生物の本だと思います。ありがとうございます。
ペルソナの記事も楽しみに読ませていただいています。嗜好性や信頼性の追求に統計やマイニングを使う時代に入りしばらくたちましたが、それがデザインまで落とし込めているか?
システムよりデザインがもっと全面にでてこないといけないと感じています。
tanahashi
自分も読んで「いい!」って思った本をそんな風に読んでいただけて。
僕もあの本はかなり手強いなって感じました。
また読まなきゃダメだなって。
実は今日はどういうわけか、ちょっと凹み気味で、一日「デザインって何だろ?」なんて悩んでいたんですけど、このコメントでちょっと元気が出ました。
ありがとうございます。