生活行動というマクロな行動そのものが階層化されているだけでなく、生活行動におけるごく一部の行為ですら、さらに細かな階層構造に分かれている。
例えば、コーヒーをつくるとか、車を運転する場合、それ自身独立に存在するいくつかのプリミティブな行為を組み合わせて、行為全体をつくっているようにみえる。例えば、まっすぐ腕をのばす。手を曲げる。手首をまわす。指を曲げる。そうした個々のミクロな行為の重ね合わせでマクロな行為はできあがっている。同じプリミティブを何度もつかって行為を組み立てているという意味では、行為も再帰構造をなしている、といえる。池上高志『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』
人間工学的な視点、人間中心設計的な視点で考えると、こうした人の運動スキルの階層構造とものの形の織り成す階層構造の関係に関しては、深く探求していかなくてはいけないテーマなのだろうと思っています。
行為のスキルアップ
そうした視点では、ニコライ・アレクサンドロヴィッチの『デクステリティ 巧みさとその発達』という本が非常に興味深いと感じています。この本で著者は、反復練習によるスキルアップという行為がなぜ必要なのかを、階層構造をもつ脳の構造と人間の動作構築の階層構造との関連から論じています。
学習された動作を実際に何度も繰り返し行う必要があるのは、感覚調整の土台となるすべての感覚を実際に経験する必要があるからだ。スキルは、脳の感覚野がさまざまなずれや変更すべてに慣れ、将来のあらゆる通訳のための「語彙」を統合させるために、何度も繰り返す必要があるのだ。ニコライ・アレクサンドロヴィッチ『デクステリティ 巧みさとその発達』
先に引用した『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』で著者の池上さんは、人の行為の階層構造をおなじく論じると同時に、個々のミクロな動作には微妙な間違い=ズレが生じると論じ、それをマイクロスリップと呼んでいます。
マイクロスリップとは、例えば、コーヒーを入れる際に「スプーンをとうろとして、コーヒーパウダーの方に手を動かしてしまう」といったようなことを指しています。
このマイクロスリップというズレと、先の引用中の「スキルは、脳の感覚野がさまざまなずれや変更すべてに慣れ、将来のあらゆる通訳のための「語彙」を統合させるために、何度も繰り返す必要がある」という部分を比較してみると、ちょっとおもしろいなと感じます。
つまり、スキルアップは基本的にずれがないように脳の感覚野が統合され組織化されていくことを指すのですが、ただ、それはミクロなレベルでは完璧にずれが生じないよう組織化されるわけではなく、そのずれさえも受け入れ可能な形で組織化されるわけです。
ずれを内包した規則
これがなぜおもしろいと思うかというとコンピュータでのプログラミングでは基本的にそういう設計はされないと思うからです。階層構造化されたプログラミングに、小さなずれが生じれば、それはすくなくともバグとして認識されるのではないかと思います。もちろん、ずれ=バグの発生を見越して、その対策をプログラムのなかに書き込んでおくことは可能なのでしょうけど、人間がスキルアップしていく中でもマイクロスリップを内包しつづけたままでいるのとはすこし意味が違う気がします。
特にプログラミング言語と、人間の言語を比較してみると、そのギャップは非常に大きい。人間の話し書く言語はプログラミング言語に比べるとはるかに規則はあいまいです。しかし、そのあいまいな言語を人間は日常的にはほとんど苦もなくつかいこなします。
言語の文法という規則は理想であって、実際の場において人が使用することでその文法からずれてしまう。しかし、実行できない規則は規則ではない。むしろ「ずれ」を基本にもって来た規則の理解が必要である。池上高志『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』
人が話す言語がプログラミング言語のように厳密なものであれば、おそらく人は言語を話すことはできないのではないでしょうか。厳密すぎる規則に関するスキルの習得は人間があまり得意とするところではないかと思います。
人間の用いる規則はあらかじめ厳密に定義されているというより、実行されることで規則になるような規則です。さまざまな小さなずれを内包しながらも、そのすべてが実行可能であるという意味においてでたらめではない規則性を有している。
しかし、デザインされたものの側には厳格なプログラミング言語と同様にこのような柔軟さはありません。人は自分たちで言語という非常に柔軟性の高いツールを実際に使っていながらも、それとおなじくらい柔軟性をもったほかのツールをデザインする能力はいまだにもつことができずにいます。
スキルアップとプライドと
おそらく、それは人間がまだ人間そのものをちゃんと理解できずにいるからなのでしょう。人間工学や人間中心設計の探求のフォーカスもそこにあると僕は考えます。ものと人の利用のあいだの慣れという現象ひとつとっても十分には理解されていないのが現状なのでしょう。
スキルの構築は、あらゆる構築や発達のように、質的に大きく異なる別々の段階から構成される。スキルの構築は意味のある連鎖反応であり、各段階を省略したり、入れ換えたりすることはできない。ニコライ・アレクサンドロヴィッチ『デクステリティ 巧みさとその発達』
スキルアップは、経験の積み重ねによる構築活動です。それは運動スキルの場合でも、より思考的なスキルの場合でもおなじでしょう。しかし、経験を重ねるといっても単に成功経験のみを重ねればいいわけではないはずです。失敗の経験もスキルアップには必要なはずです。
召使いロボットはこの経験から学ぶことができるだろうか。召使いロボットは、食器洗いロボットや食器棚ロボットが再び空にならないように、汚れた食器を定期的に回収することを行動リストに加えるべきである。こういうときに何らかのプライドが役に立つだろう。プライドがなかったらロボットは気にしないだろう。ものごとをよりよく行うために学ぼう、という動機がないからだ。
そう。失敗しても「よりよく行うために学ぼう」という意思がなければ、経験の積み重ねによるスキルアップは成立しません。それには召使いロボットに求められるのとおなじように何らかのプライドが必要になるのでしょう。もちろん、そのプライドは失敗を避けてとおるというものではありません。失敗を恐れずチャレンジを重ね「よりよく行うために学ぼう」とするプライドでしょう。
スキルとデザイン
ただし、これは自身のスキルアップのためには追及できても、何らかのツールを用いるユーザーに求めてよい類いのものではないはずです。ツールの使い方を何度も失敗するユーザーに、「よりよく行うために学ぼう」とするプライドを求めるのは間違いでしょう。その場合は、ツールのほうが人間の間違いを引き受けられるだけの柔軟性をもつようデザインされるべきなんだと思います。最も実用的で正しいトレーニングは、最小限の努力でさまざまな種類のよく計画された感覚を経験し、これらすべての感覚を、意味を理解しつつ吸収し記憶する上で最適な条件を創り出すように組織化されるだろう。ニコライ・アレクサンドロヴィッチ『デクステリティ 巧みさとその発達』
はたして皆さんはこんな「実用的で正しいトレーニング」を自分に課し、スキルアップするプライドをもっているのでしょうか?
あるいは、このような「実用的で正しいトレーニング」をユーザーが自然に、かつ、楽しく行えるようなインタラクション・デザイン、おもてなしのデザインを行えているでしょうか。
人間中心のデザイン、ユーザーエクスペリエンスのデザインの課題は、こうしたところにあるのだろうと思います。
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