ユーザーを知るための調査を行う際の5つの鉄則

自分の可能性を究めたいならグズグズしてないで、旅に出ろ、と思います。

すでに述べたように、『旅』は、"わたしさがしの旅"であるとともに"大衆演劇という世界への旅"であった。この2つの"旅"は、自分を安全な場所にかくまったままで行えるものではない。常に「いま、ここ」で自分を危うさにさらし、大衆演劇の「もう一人のメンバー」に「なろうとし続けること」で初めて可能になるものであった。

リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ」で書いたこととも関連するのですが、自分の可能性なんて実は自分の内側にあるのではなく、むしろ、自分の外にしかないと僕は思っています。外の世界と向き合うことで、自分のなかになかった何かを発見してはじめて自分の可能性というものは広がるのだと思う。ようは個人の可能性というのは外部とのインタラクションによってはじめて生まれるのだと思うのです。そのことは「実践の動きのなかで」のなかでメモしておいて、いくつかの引用にあらわれているのだと思います。

未知との出会いのための旅は、よく言われるように海外に行くことだったりという本当の旅であってもいいと思いますが、何も空間的に未知の場を旅するのではなくても、時間的な未知な場所をたずねて過去をさかのぼることもまた自分の可能性をひろげるための旅となるでしょう。いや、歴史的な時空間の地理を知らないのは、自分がどこに立っているのかさえ知らないことだといえると思います。

あるいは、デザインに関わる人であれば、未知への旅はもっとすぐ近くに存在しています。それはデザイナーにとっては未知の存在であるユーザーとの出会いです。ユーザーのことがよくわからないというのであればグズグズしてないで、旅に出ろ、って思います。

しかし、ユーザーを知るための旅に出る際に気をつけなくてはいけない5つの鉄則があります。その鉄則とは以下の5つです。

  1. アンケート調査でユーザーを知ろうとしてはいけない
  2. ユーザーに意見を聞いてはいけない
  3. 自分の思い込みは捨てないといけない
  4. 誰が調査してもおなじだと思ってはいけない
  5. 調査したなら何としでもそれを次につなげようと行動しないといけない

では、どういうことか、1つ1つ説明していくことにします。

1.アンケート調査でユーザーを知ろうとしてはいけない

ユーザー調査というとすぐにアンケートをしようとする人がいます。統計的に意味をもたせるためには何百サンプルは最低でも必要だとか言ったりします。正気でしょうか? その方法でどうやってユーザーのことが知れるというんでしょう?
だって、それってただユーザーの頭数を数えてるだけですよね? ○○の傾向を示すユーザーは何人いる。○○をみて△△だと感じたユーザーは何人いる。確かにそれで市場における傾向はわかりますよ。でも、それは市場を知ろうとしているだけで、ユーザーを知ったわけではないというところに注意しましょう。いくらユーザーの頭数を数えたところで、どのユーザーが何を求めているかはわからないでしょう。それじゃあ、ぼんやりとした魅力のない商品コンセプトしか生まれてこないのは当然です。

リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ」でも書きましたが、ドラッカーがいったように数えられるものは過去の情報でしかありません。過去に何がどれだけ売れたとか、過去どれだけの人が広告を見ただとか、過去どれだけの人が商品認知をしたのかなど、そんな情報をいくら集めたところでユーザーについては何もわからないはずです。本気でユーザーのことを知りたいと思うなら、いますぐアンケート調査などやめるべきだと思います。

2.ユーザーに意見を聞いてはいけない

アンケートに限らず、グループインタビューなどでもそうなのですが、やたらとユーザーの意見を聞きたがる人がいます。いやいや、意見なんて聞いてもしょうがないでしょう。だって、誰でも質問されれば何か答えてあげようとしますが、かといって、答えた内容を行動に移すかといえばそれは別の話です。

別にそれはあとで気が変わるとかではなくても、自分が答えたこととまったく一致する行動をうながすようなものがあとで生まれてくる確率なんてきわめて少ないからです。
ユーザーが意見を言う際には言葉としてはっきりと口に出た以上のイメージがユーザーの頭のなかには膨らんでいるはずです。その言葉にならなかった部分も察して、ものづくりを行うことなんて至難の業です。それは察することができないだけでなく、多くの場合、物理的に不可能な要素を必要とする場合が多いはずです。だって、ユーザーは実際に自分が口にしたものを物理的に実現する責任など負わずにただ聞かれたから思ったとおり答えているだけなんですから。そこに物理的にはとても実現できないような要求が含まれていたところで不思議はありません。
ようはユーザーはつくり手ではないということです。

そもそもユーザーに意見を聞くのは、ユーザーについて知りたいというよりも、ユーザーに何をつくればいいかの答えを教えてもらおうとしているだけなんじゃないでしょうか? そんなのつくり手としては怠惰すぎます。頭使ってなさすぎです。
つくるのはユーザーの仕事じゃなく、こっちの仕事なんですから「何をつくればいいですか?」なんて聞くのは論外です。

何をつくればいいかを考えるのはこっちの仕事で、そのためにユーザーがどんなものを必要としてそうかという意味でユーザーのことを知ろうとするのがユーザー調査なんだと思います。

3.自分の思い込みは捨てないといけない

ユーザーに話を聞いたり、その行動を観察したりする場合に、陥りがちなのは、ユーザーの話や行動を自分の世界観、価値観のなかで捉えようとしてしまうことです。

ユーザー調査をするのは、何も調査対象を自分の理解の枠組みのなかに押し込めるためではありません。むしろ、自分の理解が足りてないところに気づくために行うものです。自分の狭い世界から抜け出し、外の世界を発見するためです。自分の世界の価値観でユーザーの話を聞いたり、ユーザーの行動に目を向けるのではなく、ユーザーの世界観からは彼らの話、彼らの行動はどのような意味をもつのかを体験的に知ることなのです。

だから、ユーザーの話や行動を当たり前と思って聞いたり見たりしてはダメです。些細なことにでも疑問をもち、「どうして?」と考えたり、実際にユーザーに聞いてみることが大事です。「そうだよね」と共感するのではないのです。
むしろ、共感を超えてユーザーの世界を疑似体験できてこそ、意味のある発見に調査のなかで出会えるはずです。

4.誰が調査してもおなじだと思ってはいけない

コンテキスチュアル・インクワイアリーなどの調査を行う際に、インタビュアーを誰かほかの人に代行してもらおうとする人がいます。僕はそんなの調査者として失格だと思っています。

あくまでユーザーとの対面調査はユーザーと調査者のインタラクションのなかで意味を生成する活動です。その活動においては、インタビューする相手が変われば調査の結果は変わると思っていい。調査者のスキルがどうこうという話ではなく、意味はあくまで相互作用のなかで生まれるのであって、どうあがいても調査結果は解釈的な部分を含むのです。目の前のユーザーはあなたにとってのユーザーであり、ほかの誰かにとってのユーザーとは異なるのです。

コンテキスチュアル・インクワイアリーでメモをとるコツ」でも引用しましたが、

エスノグラファーは、フィールドノーツを書く作業を通して、単に出来事を文字の形に加工しているのではない。むしろ、その作業は、本質的に解釈的なプロセスを含む。
ロバート・エマーソン他『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』

調査するという作業は、解釈的なプロセスからは逃れようがないのです。それは上の引用のような「書く作業」においてそうであるだけでなく、ユーザーと接する時点でそうなのです。

注意すべきなのは、行為を適切に理解することは、社会学方法論上の問題である前に、実践に参加するものにとっての課題でもある、ということです。
前田泰樹、水川喜文、岡田光弘『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ』

ユーザー調査における行為の理解とは、調査する僕らがユーザーの行動を理解するという問題であると同時に、ユーザー自身が自らの実践的な行為を理解するという問題でもあるのです。そして、その理解はユーザー調査という場における実践によって解釈的に理解されるほかないのです。
それゆえに、誰がやってもおなじ結果が出るなんてことを、ユーザーを知るための調査に期待するのはそもそも間違っているのだと思います。

5.調査したなら何としでもそれを次につなげようと行動しないといけない

さて、ユーザーを知るための調査を行う上で最悪なのは、調査だけ行ってその結果を何にも生かすことができない事態に陥ることです。
しかし、この最悪な事態が起こるのは何もめずしいことではありません。多くの調査がやるだけやってほっておかれたり、実際のデザイン時、商品開発時にはまるで調査などやらなかったかのように、ユーザーのことなど忘れて無難でありきたり何の魅力も価値もないデザイン・コンセプト、商品コンセプトが涼しい顔して生まれてきたりするのです。
そんな結果になるのなら最初から調査などしなくていい。形だけの調査ならやらないほうがマシです。

さんざんユーザーに協力してもらっておいて、それが何にも生かされないなんて、ユーザーを馬鹿にしてます。未知のユーザーに出会うための旅は自分たちが変わるための旅立ったはずなのに、旅から帰ってきてみれば、また元通り自分の殻にとじこもってしまう。とんだ観光旅行です。

ユーザーの行動の軌跡はデザインの輪郭を決める上での制約条件の1つだと「デザインの輪郭を決める3つの制約条件」で書きました。ユーザーの行動の軌跡を追う調査を実施してなお、それをデザインに落とし込む能力がないのだとしたら、あまりにデザインをわかってなさすぎるのではないでしょうか。

いったい、誰のためのデザインですか?

好井裕明さんの『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』から、もう一度、この文章を引用しておきましょう。

「聞き取る」という営みのなかで、相手の語りや"語りのちから"から、さまざまに影響を受け、聞き手の具体的な問題への関心、理論枠、仮説、より基本的な社会理解、世界観などが変動していく。
この変動を心地よく感じ、「調べる」という営みに組み込んでいくことが、いま一つの醍醐味といえるのではないだろうか。

デザインの可能性は、調査におけるユーザーとのインタラクションのなかでデザイナー(デザイン・チーム)が感じる変動の幅によって広がることもあればそうでないこともあるのではないでしょうか。

   

関連エントリー


この記事へのコメント

  • nori

    ベストプラクティスとかもアンケートと同じで意味ないなーとか思うんですよね。ベスとプラクティスって、すごい後ろを向きながら最前をつくしている感じの行為だと思いますがどうでしょうか?
    2007年11月25日 14:24
  • tanahashi

    無意味な手法などないと思います。
    ベストプラクティスも当然無意味な手法ではありません。
    ようは手法を正しく意味のある目的で用いられるかということでしょう。

    効率化のためであればベストプラクティスも有効な手法ではないでしょうか?
    いわゆるライフハックと呼ばれるものなどはベストプラクティス以外のなにものでもないですよね。ベストプラクティスが無意味だとしたら、こんなにライフハックが流行ってる理由が僕にはわかりません。
    2007年11月26日 02:55
  • nori

    私は、tanahashiさんの、以下のエントリーが好きなのですが、

    >自分の仕事をつくる/西村佳哲:DESIGN IT! w/LOVE
    >http://gitanez.seesaa.net/article/55208139.html

    この最後の「答えは一つではない」で指摘されているように、
    「組織には決まったルールとしての働き方があったとしても、それは決して唯一の解ではない」
    「いまのモノづくりに求められるのは、答えを探す力以上に、問題そのものを発見し明示する力なのだと思います。」
    「自分の働き方をデザインすることこそ、この問題発見の具体的な実践にほかならないのだということです。」

    という点で、ベストプラクティスは、唯一の解を想定してそれに近づこうとする試みだし、答えを過去の事例に安直に探しているし、自分自身で自分自身に最適化された方法をデザインしているわけではないので、それほど意味が無いのではないかと思いました。

    私は今自分が最もやるべき事というのは、自分と世界とが対峙したその相互作用の中にのみ解があると考えているので、過去の事例を模索するのは、「ベスト」な方法ではないのではないかと考えています。

    ただ、自分の知らなかった方法を知ることで自分の引き出しを広げるという意味において、過去の事例を知っておくというのは必要な事だと思いますが、それを「ベスト」な解だと想定してそれに近づこうとするのは、本質ではないのではないでしょうか?
    2007年11月27日 14:26
  • nori

    っていうか一言で言えば、tanahashiさんの常々言われているように、もっと自分で模索したほうが良いよね、っていう話です。
    2007年11月27日 14:29
  • tanahashi

    僕自身は、自分で探すこととベストプラクティスを利用することはまったく矛盾しないと思ってます。

    「千利休より古田織部へ/久野治」(http://gitanez.seesaa.net/article/68890897.html)でも書きましたが、利休は「守・破・離」の重要性を説きました。
    あるいは「すばらしいものはもう過去に達成されている」(http://gitanez.seesaa.net/article/43964424.html)で書いたように、深澤直人さんは「すばらしいものはもう過去に達成されていると思います。すべて完璧に達成されてしまっている」と言っている。

    過去を参照しないのは、むしろ単なる怠惰だと僕は考えます。過去を参照し試してみた上で自分で考えたってぜんぜん遅くない。どのみち過去を参照したところで完璧に過去をなぞることなどできないのですから。

    おっしゃるとおり、ベストプラクティスのベストは過去のベストです。しかし/であればこそ、そのベストを超えたいのであれば、その過去のベストを通過してみるくらいの余裕があった上で「自分の方法」を確立するくらいじゃないとダメでしょって思います。

    それにこんだけ最近のエントリーで日本の過去ばかりに興味をもっている僕が、過去=ベストプラクティスを参照してないわけがないですよw
    過去や他人を参照しないほうが僕にはありえない。それって単に勉強嫌いだったり、単に自分の殻にとじこもってるだけでしょって思います。僕はもっと余裕をもちたい。余裕をもって過去や他人を見た上で自分と向き合いたいと思います。

    だから過去の参照と「自分の方法」を探すことが矛盾するどころか、僕にとっては「守・破・離」という意味でそれこそ「自分の方法」を探す近道である唯一の道だと考えています。
    2007年11月29日 02:56
  • nori

    確かに過去にも見るべきものはたくさん有りますね。過去であれ、未来であれ、時間軸に関係なく、自分にとって未知の世界であればフロンティアですからね。探索してみれば得られるものはたくさんあると思います。
    ただ、一般的に巷で「ベストプラクティス」と言われるときに、文脈として、それがベストな方法論としてアプローチするべき対象のように語られることが多いのではないかと思い、その点に引っかかっていました。(私のの主観ですが。)
    それを引き出しとして蓄えておいて、それを素材として自分なりにアレンジを加えていったり、それを踏まえたうえで、それを超えていくというのが、“ベストプラクティス”に対する適切な姿勢なのではないかと私は考えました。
    2007年11月29日 06:11
  • tanahashi

    まぁ、なんでもいいですけど、そもそも、このエントリー調査の話をしてるんですけどね。
    ズレた話をひっぱりすぎ。自分の意見は自分でブログなど開設してやってください。
    以上でこの話は終了です。
    2007年11月29日 07:37

この記事へのトラックバック