天才 青山二郎の眼力/白洲信哉

「すべての研究は問題から始められねばならない。研究が成功するのは、問題が妥当な場合に限られるのだ。そして問題が独創的である場合に限って、研究もまた独創的でありうる」とは、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』のなかの一節です。
社会において研究が価値をもつためには、どこかしらに独創性がなくてはいけないはずです。独創性に欠ける研究は、誰か別の人も同時に行っているという意味で市場における希少性に欠けてしまうのですから。

研究においても独創性をもつことが必要であるという意味では、昨日の「リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ」でも「断片的な情報、ハウトゥ型の知識が氾濫する現代社会において、情報を自らの手で獲得し、分析」することが必要だという「島国際学院大学 現代社会学部の教育理念である「リサーチマインド」を紹介しました。
また、その独創性を得るために、歴史上の多くの探求者が未知のものを目指して旅に出たことも紹介しています。

そして、この本の主人公である青山二郎という人も、独創的な審美眼を養うため、旅をした人ではなかったかという気がしています。

青山二郎という人

多くの人が、青山二郎という名前を聞いてもピンとこないのではないでしょうか。「天才」といわれてもどんな天才なのかがわからない人が多いのではないかと思います。
僕自身、この本を読み始めるまでは、青山二郎という人がどんな人なのか、まったく知りませんでした(それでも、この本を買うのがわれながらすごいなと思うところ)。

どういう人かをWikipediaから引用すると、以下のようになります。

青山 二郎(あおやま じろう 1901年6月 - 1979年3月27日)は東京府出身の伝説的な骨董の目利き。多くの文人を育て、多大な影響を与えた。

高等遊民と呼ばれ、生涯定職に就くことはなかったが、装幀家としては沢山の作品を残し、また評価も高い。

「生涯定職に就くことはなかった」という点については、この本の著者の白洲信哉さんが宇野千代さんの本からこんな引用をしています。

40年近くにわたって親しかった宇野千代は、「不思議なことであるが、青山さんには、これと言った仕事はない。いや、仕事と好きなことをするのとの区別がない。(中略)一体に、青山さんのしていることは、それが本気であっても、面白半分に見える。ひょっとしたら、愉しいことだけしか、しないからかも知れない。何かに規制されてする、義務的にする、と言うことはないように見える。いや、ひょっとしたら、そう言うことも、青山さんの手にかかると、面白いことをしているように、変わって見えるのかも知れない」(「青山二郎の話」)と書いた。
白洲信哉『天才 青山二郎の眼力』

これを読むと、青山二郎という人は「愉しいことだけしか、しない」ように見えたために、定職をもたない人に見えたのかもしれません。いや、実際、定職にはつかなかったのでしょうけど、それ以前にあまり仕事をしているようには見えなかったのかもしれません。

「愉しいことだけしか、しない」ためには独創的な眼力が必要

生きていくうえで「愉しいことだけしか、しない」というのは生易しいことではありません。
いや、それは単に生きていくためには、仕事や勉強など、本来、好きこのんでやりたくないこともしなくてはいけないという意味でそうだというのではありません。
みんな、あんまり考えないのでしょうけど、楽しいことだってやり続ければ飽きます。また、「なんかおもしろいことないかな」なんて言ってる人がたまにいるように、楽しいことを見つけるのもそれほど簡単なことではありません。

「愉しいことだけしか、しない」青山二郎のような人のことを、他人は「いいよな」とうらやむのかもしれませんが、決して「愉しいことだけしか、しない」ことは簡単なことではないはずです。それこそ、他人が気づかない「愉しいこと」に独創的な眼力で気づく力がなくては成り立たないのだと思います。

まだ十六、七歳の青山が、当時はごく限られた数奇者しか知らなかったような宋鈞窯の盃を、いきなり買ったという逸話はあまりに有名だ。その「天才的な審美眼」を持つ青年青山二郎の名は、壺中居初代の広田不狐斎はじめ、中国古陶磁の大コレクター横河民輔や倉橋藤治郎など一流の愛陶家たちに、広く知れ渡るのであった。
白洲信哉『天才 青山二郎の眼力』

青山二郎という人が本当に「愉しいことだけしか、しない」人であったのだとしたら、すでに世の中的に価値の決まったものだけを追いかけていたら、とてもそれだけして過ごすための「愉しみ」が不足していたはずです。「愉しいことだけしか、しない」ためには、まだ世間的な価値の決まっていない未知の価値=愉しみを求めて、ひたすら旅をし続けるしかなかったのだと思います。

ものをみる眼、人をみる眼

すでに「やりたいことが見つからないならやれることからはじめてみては?」や「目利き。」というエントリーでも紹介しましたが、「利休の観察力はあまたの茶人の歴史でも群を抜いている」と松岡正剛さんは『日本数寄』のなかで書いています。また、「器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった」とも述べています。

この「器物を見る目」とともに「人の器量を見る目」をあわせもっていたという点では、青山二郎という人も利休に近い存在だったのかもしれません。

青山の鑑識眼は、骨董ばかりでなく、友人にも鋭く見開かれた。「焼物を見て、こくのある、味の強い、何と言うか漸進的に迫ってくるようなものがあると、これは後期印象派だと言っていた。人間を見るにも、である。青山二郎の傾向と言うものがそうであった。(中略)青山二郎の好んで近づいた人の中には、そう言う人があった。欠けていても、破片になったような人でも、強い、迫ってくるようなものがあると、惹かれて行ったのではなかったか」(「青山二郎の話」)。宇野千代は、青山の友人との付き合いについて、的確に描写している。
白洲信哉『天才 青山二郎の眼力』

先に引用したWikipediaでも紹介されていたとおり、青山二郎のまわりには、多くの文人が集っていた。小林秀雄、永井龍男、中原中也、大岡昇平、河上徹太郎、白洲正子、宇野千代。
この本の著者の白洲信哉さんは、青山二郎の最期の弟子といわれた白洲正子さんの孫にあたります。

文人たちは「青山道場」と呼ばれた夜ごとの集いで、酒を飲み、議論を戦わせ、けんか腰で絡み、衝突しては互いにもみあっていたといいます。青山二郎という人は、あの小林秀雄に対して「オイ、小林、お前の文章はダメだぞ」といってしつこくいじめて、涙を流させたこともあったそうです。

とうぜん、錚々たる文人たちに対し、それだけのことが言え、かつ言われたほうも耳を傾けるのは、青山二郎という人の眼力が、人に対してもそれだけ鋭かったということなのでしょう。

自分をみがく

最近、千利休古田織部に関する本、松岡正剛さんの本、さらにはこの青山二郎さんに関する本を読んで、ますます自分の眼力を磨かなくてはという気になります。

昨日の「リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ」では、「調査対象者や未知のものに出会って、自分自身(の理論枠、仮説、社会理解、世界観)が変わることがリサーチの本質があります」と書きました。
研究とは、そのように未知のものと出会うなかでの発見を通じて自分を変えていくことだと思います。そして、この「自分を変えていく」活動こそが「自分をみがく」ことにつながるのだと思います。自分をみがき、きわめる。それが研究なのではないでしょうか?

それにしても約120ページ、オールカラーで青山二郎さんのコレクションや装丁作品を紹介した1冊が1400円。
正直、この値段は破格だと思うのですが、どうでしょうか?



関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック