リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ

そこにリサーチ・マインドはあるのか?
ここ数ヶ月間、僕の意識をそんな疑問がよぎることがときどきあります。

ここでいうリサーチ・マインドは、日本語にすれば、探究心あるいは研究魂となります。また、リサーチはもちろんR&DのRの部分でもあります。

ものづくりにこころや魂がこもっているかが問われていいように、リサーチにも同じようにこころや魂が問われていいと僕は思っています。いや、問われるべきだろうと思います。

研究や調査というと、そんなもの何も社会の役に立つものを生み出さないじゃないかと考える人もいるでしょう。いや、そこまでいかなくても研究や調査から社会的に役立つものが生まれる確率はあまり高くないとか、それには時間がかかるとか感じている方がほとんどじゃないかと思います。
だったら、もっと社会の役に立つ、ものづくりなどに励んだほうがいいはずだと考えたりするのでしょうけど、「これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね」というエントリーで書いたとおり、必要だからとりあえず買うけど、いらなくなったらすぐ捨てられるようなものしかつくれない、いまのものづくりが本当に研究や調査以上の確率で社会に役立っているのかというと大いに疑問です。

そして、そのことに疑問をもつひとがあまり多くないように思えるところに、僕の「リサーチ・マインド」に関する大いなる疑問の根源があります。
すこし前にデザインに関する疑問を呈したエントリー「関係性を問う力、構造を読み解く目がなければデザインできない」を書いたのも結局、そこのところの疑問につながっている。探究心、研究魂がなければデザインなどできないと僕は断言してもいいと思っています。探究心、研究魂がなければ、関係性を問うことも、構造を読み解くこともできないのだから。

では、そのリサーチ・マインドとは何なのか?
それをこのエントリーでは考えてみたいと思います。

リサーチ・マインド

まず、僕が「リサーチ・マインド」なる言葉を意識のなかで用いるようになったのは、以前に紹介した好井裕明さんの『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』で、こんな記述を読んだからです。

以前、私が勤めていた広島国際学院大学現代社会学部には、学部創設時から一つの明快なポリシーがある。それは社会学の「リサーチ・マインド」を教えるというものだ。

実際に、広島国際学院大学現代社会学部のサイトを見てみると、「リサーチ・マインド」に関しては、以下のように書かれています。

断片的な情報、ハウトゥ型の知識が氾濫する現代社会において、情報を自らの手で獲得し、分析し、そこで得られた知見を実践的な計画へと移しかえ、政策や対策を立案するという高度に知的な能力が求められています。
こうした課題を担うことができる人の思考や行動を支えているのが、本学部の教育理念である「リサーチマインド」です。それは「未知の事柄を大胆にかつ的確に根拠を求めて探求していく精神」を指しており、広い意味での「リサーチ」をやり抜く精神を意味します。

僕も実はいまはじめて読んだのですが、「未知の事柄を大胆にかつ的確に根拠を求めて探求していく精神」というのは僕がぼんやり考えていた「リサーチ・マインド」に近い。また、それがなぜ必要かという部分でも「そこで得られた知見を実践的な計画へと移しかえ、政策や対策を立案するという高度に知的な能力」につながるからだという面でも、デザイン(is not ものづくり)を重視している僕にはすごく合点がいく点です。

さらにいえば、「自らの手で獲得し、分析」というところは、言葉以上に深く捉える必要があると思っています。

例えば、好井裕明さんは、先の『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』でこんな風に書いています。

「聞き取る」という営みのなかで、相手の語りや"語りのちから"から、さまざまに影響を受け、聞き手の具体的な問題への関心、理論枠、仮説、より基本的な社会理解、世界観などが変動していく。
この変動を心地よく感じ、「調べる」という営みに組み込んでいくことが、いま一つの醍醐味といえるのではないだろうか。

そうなんです。調査をすることというのは、調査対象を無理やり自分の理論枠や仮説に押し込めることではありません。未知のものを自分が最初からもっている社会理解や世界観のなかで捉えることではないのです。
自分の殻にこもってそこから世界をみることでは決してないと思います。むしろ、どれだけ自分を世界の謎に曝していけるかが勝負です。

実際に僕もコンテキスチュアル・インクワイアリーによるユーザー行動調査を行っているのですが、自分の理論枠で調査対象者に対峙したのでは何も得るものはありません。僕が調査の際に心がけるのは何より調査の前と後で自分自身の見方が変わっているかどうかです。自分自身の見方が変えられなかったとき、失敗したなと感じて反省します。

調査対象者や未知のものに出会って、自分自身(の理論枠、仮説、社会理解、世界観)が変わることがリサーチの本質があります
そして、その変化を「心地よく感じ」られるかというところに、「リサーチ・マインド」が備わっているかどうかの境があると思っています。

定量的調査は仮説検証の手法

僕の個人的な好みをすこし書いておくと、はっきり言って定量的調査っていうのはあんまり好きじゃありません。

というのは、それはリサーチという意味での調査ではないからです。それは多くの場合、サーベイです。ようするに基本的にはある仮説を検証するためのものです。
先の話とつなげると、調査対象となるものを自分の理論枠や仮説の側からみるとどう見えるかを見るためのものです。

もちろん、定量調査が役に立たないなんて思いません。しかし、それが役に立つシーンはあくまで効果測定の場面であることを多くの人が理解していません。

効果測定といっているのは、車についてるスピードメーターなどの計器といっしょだという意味です。60キロだろうが、100キロだろうが、その数値そのものには意味がありません。あくまでそれはいま走ってる道路との制限速度との関係などと比較してはじめて、60キロだとか100キロだとかいう数字が意味をもってきます。

僕が定量的調査があまり好まないのは、定量的調査がそういう計器的な道具であることを忘れて、調査さえすれば何か発見があるとでも思ってる人がやたらむやみに調査をしたがるからです。数字を知ってどうするの?って場合が多いんです。
60キロっていう数字が走ってる車の速度や自分の体重であるのがわかることには意味も見い出しやすいでしょう。なぜなら、その数字をなにと比較して、どうその意味を読みとき、その結果、どう行動すればよいかはある程度明確だから。それはあらかじめ測った数値をどう読むかの基準が明確になってるからです。

そういう場合であれば測ることに意味はある。しかし、多くの定量的調査には意味がない。もうわかりましたよね、なんで意味がない定量的調査が多いのか。つまり、測った数値をどう読むか
の基準が調査をする前に決まってないことが非常に多いからです。そして、基準を決めなくてはならない意味さえわかってない人が多い。定量的調査を価値発見の手法だと勘違いしてる人が多いんです。

ドラッカーはマネジメントにおいて数字を重視しませんでした。
数字になったときには過去のもの、意味のないものになっていると考えていたからです。明日を変える重要なことは、残念ながら定量化になじまないと考えていたからです。

定量化の手法には「リサーチ・マインド」が宿りようがないと僕は考えています。
それは調査において未知との出会いが自分が変わることであるように、リサーチとはあくまで明日を変えるための試みだと考えるからです。

みがき・きわめる・こころ

研究とは、研き、究めることです。究めるのは「きわ」は、極であり、際です。極限であり、極端であり、瀬戸際であり、間際です。そして、きわどさがある。

スサノオの根の堅州への旅やホオリの海宮への旅をはじめ、空也や一遍の遊行、西行や芭蕉の吟遊、これらはいずれも「際」におもむくものだった。

宮本武蔵の『五輪書』に拍子の話が何度も出てきます。そこに「さかゆる拍子・おとるふ拍子・あたる拍子・そむく拍子」とあります。武蔵はこのような拍子の自分が相手との闘いをするうちに気づいたようです。どのように気づいたかというと、自分が真剣で構え、相手ととのに動いていて「渡」をこすたびに少しずつ気がついていた。(中略)武蔵のいう「渡」とは瀬戸や瀬戸際のようなもので、川や海を漕ぐときに越える瀬戸のことをさしています。そこを過ぎるかどうかが「渡」です。
松岡正剛『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』

スサノオや一遍、西行や芭蕉が未知の場におもむき、それに対峙するのも、武蔵が相手と真剣で対峙するのもの、そこに超えるべき「際」があるからです。
そして、研究することは、この「際」を究めることなのだという意味で、彼らの試みとなんら変わりはないと思うのです。

また、研くということは、漉く・梳く・鋤く・透く・好くことに似ていると思います。つまり、数寄のこころです。

数寄はもちろんスキである。「好き」でもあるが、隙間を透くことでもあった。一言でいえばスクリーニングのこと、透いて漉いて、鋤いて空いていくことである。そのうえで好いていく。

妙喜庵の待庵のつくりには、すべてを捨てきった丿貫とはちがう、捨ててなお捨てきれぬものを残しえた利休の優位を感じる。二畳台目、室床、躙口、天井、いずれにも覚悟も作文もあった。逆にいうなら丿貫には「好み」が欠けていたということなのである。

数寄のこころは、丿貫のようにすべてを捨てることではありません。利休のように覚悟を決めて透いて漉いて鋤いて空いて好きになりきることだと思います。

研究とはこの数寄の際を知ることではないでしょうか。その覚悟があり、それを楽しめるかということが「リサーチ・マインド」の有無に直結するのだと思います。

もう一度、繰り返すなら、「リサーチ・マインド」は「未知の事柄を大胆にかつ的確に根拠を求めて探求していく精神」であり、未知のものへの積極的な出会いを通じて数寄の際を渡ることで、実践的な計画、政策や対策を立案する(ようはデザインですね)行動力の源になるものだと思います。

こういう「リサーチ・マインド」をもたずに片手間にリサーチをしようなんて甘い考えでは、それが何も生み出さないのは当然だと僕は思っていますし、僕自身はそうしたリサーチには手を出したいとは思いません。
いつまでも「リサーチ・マインド」を大切にしていければと思う次第です。

  

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