運動が開始されることで、環境には差異が生まれ、その差異が生命の内部に新たな差異をつくりだしていく。運動することで遠近感が構成され、敵と見方が判別でき、探索と発見が可能になり、知覚に多様性が生まれ、言語が進化するというシナリオが考えられる。運動は意識と知覚の進化の原動力である。池上高志『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』
この本で著者はまた別のところで、"運動のスタイルの生成は、また「意味の獲得」でもある"と述べています。
前に「写真を揺らしながら見ると立体的に見える」なんてエントリーを書きましたが、運動のなかで「立体的に」も含めた意味を獲得しているということなのでしょうか?
アフォーダンス的にいえば、情報は環境と人がそれを感知する動きの相互作用のなかにある。だから、写真は揺らすと立体視されるわけ。
このあたりが先に書いた「人は、4分の1インチの穴を欲するではなく、4分の1インチ・ドリルを欲する」や「物VS経験なんて二元論に誤魔化されないようにしましょう」といったエントリーで書いた物と情報、経験の関係にもつながるところ。
さらにこの運動と意味の関係は、茶器に高い価値が置かれる茶の湯において、同時に作法という運動が重視されるのも、これと無関係ではないという気がしています。
動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる。それゆえに一座建立という一期一会の出会いの価値を最大限高めるためにお作法というガイドラインが茶の湯においては大事にされるのではないでしょうか?
このあたりの日常において感じとれる繊細さをもっと磨いていきたいな、と。
それがいま自分のテーマであるデザインのためのリサーチマインドにつながる。おっと熱のせいか、何書いてるかわかりませんね。
まぁ、このあたりは風邪が治り次第、もうすこし突っ込んで考えてみたいところ。
やっぱりもうちょっと認知科学のお勉強をしようかしら。あと茶の湯についてももうすこし。
とりあえず、おやすみなさい。
P.S.(2007/11/20 16:00)
おっと、yusukeさんがこんなことを書いてました。
マリオもそう。誰もピーチ姫救うことなんて考えてプレイしてない。マリオが動くことが楽しい。
日本人は、行為そのものに価値を見出す
ずっと前に「作業を増やすことが価値を増やすことがある」なんてエントリーを書いたこともあるけど、ゲームにおいては通常の目的以上の操作によって生まれる動きそのものがゲームをやる動機=モチベーションになることはよくあることですよね。
行為そのものに価値を見出す日本人だから、動きが意味を生成するといったアフォーダンスの理論が本国アメリカ以上に流行っちゃうのかもしれませんね。
あと、この話との関連でいうと、ペルソナをデザインに活用する場合も単に人のフォーカスしてもダメってことですね。
意味(=価値)が環境のなかでの動きのなかで生成されてくるとしたら、単にユーザー像を描くだけでなく、ユーザーの行為そのものを同時に描かないといけないのでしょう。
じゃないと「ピーチ姫救う」ストーリーばっかり凝ったものになって、マリオの動きを楽しくするデザインは生まれないでしょうから。
追記したら、手短なエントリーじゃなくなりましたねw
関連エントリー
- 写真を揺らしながら見ると立体的に見える
- 人は、4分の1インチの穴を欲するではなく、4分の1インチ・ドリルを欲する
- 物VS経験なんて二元論に誤魔化されないようにしましょう
- 認知科学への招待―心の研究のおもしろさに迫る・大津由紀雄、波多野誼余夫 編著
- 一期一会のデザイン
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