まあ、よく聞かれる言葉ではあります。
例えば、マーケティングの分野では過去に、セオドア・レビットが
昨年、4分の1インチ・ドリルが100万個売れたが、これは人びとが4分の1インチ・ドリルを欲したからでなく、4分の1インチの穴を欲したからだ。セオドア・レビット『マーケティング発想法』
といい、物そのものではなく、ベネフィットの重要性を訴えたのは有名な話です。
でもね、そう考える人たちがひとつ忘れてることがあります。
「決死の覚悟」か…
長く使い番をしておればよく耳にするつまらぬ台詞よ
口ではいえど
人間 生への執着はそう易々と捨てきれぬもの
「物」にかかわる執着は特にな
物理的なものから解放された情報、サービスは現実には存在しないということです。
紙幣や硬貨が電子マネーになろうとも、それは紙幣や硬貨という形態の物ではなくなっただけで、それは以前としてICカード、あるいは、おサイフケータイとしての物理性をとどめているように。
背景化した「物」
手描きで書いた数字の「1」と、いま皆さんの目の前にあるモニターにキーボードで「1」のキーを押してあらわれる「1」とは違います。同じ手描きでも、ホワイトボードにマーカーで描いた「1」、自分のノートにボールペンで書いた「1」、あるいは他の人が同じくボールペンで書いた「1」はそれぞれ異なります。人によってどの「1」に愛着を感じるかは異なるでしょうが、それぞれの「1」に感じる愛着の度合いが異なるという意味では、皆さん同じなのではないでしょうか?プラトン的な直線、円は存在しません。直線には太さがあるし厚みがあるし、円の半径および円周は太さをもった線の内側と外側を測るのでは異なります。
直線は定義的には、1次元的な存在のはずですが、実際には3次元の物理性をもった形でしか存在しえません。単に普段はその物理性に無頓着であるだけで、手描きで書いたへたくそな直線を見てはじめて、その物理性に気づくだけです。
私たちは何気なく「エネルギーを消費する」などといいますが、それは決してエネルギーそのものを消失していることを意味するのではありません。(中略)「エネルギー問題」というのも、地球上からエネルギーそのものが失われつつあるという問題ではなく、利用可能な種類のエネルギーの枯渇に関わる問題なのです。蔵本由紀『非線形科学』
これは熱力学第一法則を考えれば当然ですよね。エネルギーは失われることなく一定の量に保存されているはずです。しかい、僕らは日常「エネルギーを消費する」といいますし、実際「エネルギーが消費された」ように感じることも多い。でも、それは上の引用にもあるとおり、僕らにとって意味のある(利用可能な)エネルギーが意味のない(利用不可能な)エネルギーに変換されて保存されただけです。
それと同じで僕らが情報に接していると感じるのは、その情報がメディアとして利用している物理的な物に気づかずにいるだけのことです。僕らが情報を見ていると感じている際にはその情報が載ったメディアである物は背景として見えなくなっているのにすぎません。
ブログを読んでいる際にモニターやその素材を気にしていたら文章が頭に入ってきませんし、新聞を読むのに新聞紙の紙質の細かな違いに目をやっていたらいつまで経っても記事が頭に入ってこないでしょう。
あひるを見ているときはうさぎは見えない
すでに何度も引用してますが、アフォーダンス理論のように情報を捉えたほうがいいのではないかと思います。生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』
前に「3種の表面とユーザー・インターフェイスのデザイン」というエントリーでも紹介しましたが、佐々木正人さんは『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』のなかで、人間という生物にとって、環境に存在する物のレイアウト表面には、以下の3つに分類できると整理しています。
- 未加工の表面:地面をはじめ、ヒトが加工を施していない自然なままの表面を指します。
- 修正された表面:自然に存在する物を人工的に加工したもの。光輝くダイヤモンド、数々の素材が組み合わされてできた家、ペットボトルなど。
- 表現された表面:ある表面に別の表面が意味するものを重ねたもの。陶工が陶器の表面に縄を押し付けて文様を刻んだり、画家がキャンバスの上に絵を描いたりしたもの。
先の「1」の例や、モニターや新聞紙の上のブログの文章や新聞記事は3番目の「表現された表面」です。さらにそのモニターや新聞紙自体が「修正された表面」です。そして、僕らはそういう行動を地面の上でしている(もちろん、地面それ自体であることは少なく「修正された表面」である建築物の床の上であることが多いのでしょうけど)。
人が地面を歩く際には地面の凸凹を感じながら歩きます。それがオフィスの床など均一な平面ではなく、岩場のように凸凹が激しい場所であれば、なるべく平らなところを探して歩くことになります。このような移動にまつわる経験を佐々木さんは「表面の経験」と呼んでいます。
この「表面の経験」自体が物のもたらす情報です。
何も「表現された表面」の上の文字や図像などだけが情報ではありません。「修正された表面」である人工物それ自体が情報となりえますし、まったく人の手が入っていない「未加工の表面」ですら情報を発しています。それに気づくか気づかないかは単に何の情報を図として読み取り、他にも情報を発する可能性がある表面を地として見ているかというだけの違いです。
うさぎを見ているとき、あひるは見えませんし、その逆もまた真です。
「物」にかかわる執着
さて、マーケティングにおいては、先にも書いたように、かつて物そのものではなくベネフィットを売ろうといわれた時代がありました。それゆえに物そのものである商品をつくること以外に、プロモーションや価格、チャネルなどにも注力することが求められました。
物と情報・サービスの二元論がそこに生まれました。
しかし、これだけマーケティング・コミュニケーションという情報が氾濫した現在ではこの考え方はどうなんでしょう。「Re:ネット視聴率の低下」でも指摘しましたが、これだけベネフィットをうたうマーケティング情報が世の中にあふれかえっていては、情報がそれを求める人のところに届くのにとてつもなく時間がかかりますし、そもそもベネフィットそれ自体が区別がつかないような情報が日々うるさいくらい、まわりには存在しています。もはや情報は欲せられているというより、必要な情報以外には耳をふさいでいるという状況ではないでしょうか?
イメージ的にはもはや物自体よりベネフィットをうたうマーケティング・コミュニケーションの情報の多いくらいです。そうなったら、むしろ見分けのつかない膨大なマーケティング・コミュニケーション情報をあてにするより、物それ自体の違いに目を向けるほうがはるかにたやすいのではないかと思います。
物あまりの時代といわれて久しいわけですが、むしろ、いまは物以上にマーケティング情報が余っていると認識したほうがよいでしょう。明らかに供給過多なのは商品そのものではなく情報です。
だからこそ、下手な広告より一目で違いの分かるデザインに優れたものがヒットを飛ばしたりするのではないでしょうか?
前に「デザインってスゴイんだってことをもっと本気で言わなきゃダメだと思う」なんてエントリーを書きましたが、それと同時に「デザインってスゴイんだってことを本気で気づかなきゃダメだと」思います。
人間、 「物」にかかわる執着はそう易々と捨てきれぬものですから。
人は、4分の1インチの穴を欲するではなく、4分の1インチ・ドリルを欲するんですよ、いまの時代。
関連エントリー
- 生態学的認識論における情報と環境
- へうげもの/山田芳裕
- 3種の表面とユーザー・インターフェイスのデザイン
- デザインの生態学―新しいデザインの教科書/後藤武、 佐々木正人、深澤直人
- Re:ネット視聴率の低下
- デザインってスゴイんだってことをもっと本気で言わなきゃダメだと思う
- これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね
- 空腹を満たすだけのものよりどうせならおいしいものを食べたいよね
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