一期一会のデザイン

茶会の心得として「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といわれます。

千利休の門弟であった山上宗二が著した茶書に次のように記されているといわれます。

朝夕寄合いの間なりとも、道具の開き、または口切の儀は申すに及ばず、常の茶湯なりとも、路地へはいるから立つまで、一期に一度の参会の様に、亭主をしっして威づべき
『山上宗二記』

頻繁にユーザー調査やクライアントを招いてのワークショップを開催するようになって、あらためて一期一会という言葉が非常に大事なことだと身に染みて感じていたりします。

あるいは、何度も繰り返し訪れるツールとしてのWebサイトではなく、何かしらの情報を得るために一度きり訪れるWebサイト(ページ)にこそ、一期一会という言葉はあてはまるのではないかと思っています。

ユーザー調査の一期一会

僕は、この一期一会という言葉が利休のデザイン観を示す非常に重要な言葉だと考えています。いや利休のデザイン観というより、デザインを行う上で非常に大事なことだというべきでしょうか。

例えば、僕が仕事で行っている、コンテキスチュアル・インクワイアリーによるユーザー調査や、デザイン評価のためのユーザビリティ・テストはいずれも、おそらく二度と会うことがないだろう一般のユーザーをモニターにして、ごく限られた時間(1時間から1時間半のあいだ)で行われます。
その短い限られた時間で、ユーザー調査であればその人の人となりや普段のWebサイトの利用状況、その人自身も気づかずにいる潜在的なニーズなどを発見する必要があります。そこで調査の目的をまっとうすることができなくても、ほとんどやり直しはききません。まさにそのユーザーとの出会いは一期一会です。

そのため、利休が一期一会の茶会をまっとうするために、「その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽く」して創意工夫をしたように、僕自身も実査に際しては単にフレームワークや会場の準備として調査をデザインするだけでなく、その場でどう振舞うのかを事前にイメージトレーニング(仮説を形成)して臨むます。
もちろん、見ず知らずのユーザーを相手に行う実際の調査は、事前の準備のとおりには事ははこびませんから、一時間から一時間半の調査対象者とのやりとりのなかで、常に自分のなかの仮説を壊しては組み立てなおしを繰り返しつつ、調査の目的をまっとうしようと努めます。

以前、「おもてなしの姿勢:「主」と「客」」というエントリーを書きましたが、ユーザー調査において何より大事なのは一期一会の出会いであるユーザーをどのようにしてもてなすのかということだと思います。
それにはどのようにユーザーを調査の場に招きいれれば調査の目的を達することができるのかを、事前に、そしてその場が開かれているなかで創意工夫しデザインしていかなくてはいけないと思っています。

利休七則

ある人が「茶道とは何ですか、教えてください」と尋ねたことに対して利休が答えたとされる『利休七則』は、次のような7つの項目からなる茶の湯のこころのガイドライン(心得)です。

  1. 茶は服のよきように
  2. 炭は湯の沸くように
  3. 夏は涼しく、冬は暖かに
  4. 花は野にあるように
  5. 刻限は早めに
  6. 降らずとも雨の用意
  7. 相客に心せよ

この7つ目の「相客に心せよ(同じ場に居合わせた同士、お互い気遣い思いやること)」の背景にも、やはり一期一会の精神があるのがわかります。
それだけでなく「夏は涼しく、冬は暖かに」「花は野にあるように」「降らずとも雨の用意」など、茶の湯において場を形成する上では、もてなしのためのデザイン、創意工夫が非常に大切であるのがわかります。

二畳半の茶室・待庵のデザイン

古田織部の研究家である久野治さんは『千利休から古田織部へ』のなかで、利休がつくった二畳半の茶室・待庵について次のように書いています。

十八畳の書院の広間の四分の一を屏風でかこみ、四畳半で茶事をもよおし茶室の広さは四畳半を"囲い"として標準化していたことにくらぶれば、これはまさに削ぎにそった最小限の広さで、かつせまい躙り口から入れば、そこはもはや貴紳僧俗のさかいのない、人間対人間のまったき平等の世界である。侘びの極北を利休はここに見出したのではないだろうか。"一期一会"のこころはこの厳格にして卓越したこころからのみ生まれ、宗教的なストイック性は壁の一輪の花とともに宿っているといえよう。
久野治『千利休から古田織部へ』

屏風で囲った四畳半の空間の外にある十八畳の書院の空間を省き、さらに残った四畳半をも二畳半にも省き、最小限に削ぎ落とした利休の待庵。
無駄を省き、かつ必要を際立たせる「最小限のデザイン」」というエントリーでも、引き算のデザインとして「単にユーザーのニーズを拾うのではなく、最も大事なものを拾い上げてあげることが大事」と書きましたが、"一期一会"を大事にした利休の茶の湯の場においては、まさに「人間対人間のまったき平等の世界」を実現するために、物は最小限まで削ぎ落とされたといえるのでしょう。

この待庵の最小限のデザインは、訪れる人のことがわかっておらず、さらに自分たちが何を最も表現したいかが明確になっていないために、ゴテゴテといらぬものまで表に出してしまい、結局、見てもなんだかわからないWebサイトのトップページとは正反対のデザインです。

ペルソナを使ってWebデザインの評価を行う」で紹介した、ヤコブ・ニールセンの10ヒューリスティックスにも「最小限で美しいデザインを施す」という1項目があるように、ゴテゴテといらないものまで配置されたWebサイトのトップページほど、使いにくくわかりにくいものはありません。Webサイトのトップページにははじめて訪れた人をどうもてなすかということが重要な機能の1つとしてあると思うのですが、訪れた方が本当に必要なものだけを残すという配慮、創意工夫に欠けたトップページほど、醜く悲惨なものはないと思います。

一期一会の精神があればこそ、人はもう一度訪れたいと思うのでは?

多くのWebサイトは、この一期一会の精神がないために、逆に一度にあれもこれもと見せようと思っているのではないでしょうか?

逆にブログであれば、ある意味、たった1つのエントリーを一度だけ読む人のことを多くのブロガーが想定しているような気がします。そのため、ブログのトップページというものは、あまり意味をなさない。いや、1つ1つのエントリーページがまさに一期一会の入り口であり、もてなしの場なのかもしれません。もちろん、ブロガーといえども本当に一度きりしか見えてもらえないよりも、何度も見てくれる人が増えるのを願う気持ちはあるのですが。

もちろん、利休といえどもそれは同じだったはずです。いや、昨日の「千利休/清原なつの」でも紹介したように、利休は茶人であると同時に、堺の商売人でもありました。一見の客よりお得意様、リピート客が増えるのを武人や僧よりよっぽど望んでいたはずです。一期一会よりも千客万来のほうを望んでいたはずです。

僕は、利休という商売人は千客万来を望むがゆえに、むしろ、一期一会の精神を大事にしたのではないかと考えます。このお客さんには二度と会うことができないかもしれないと思うからこそ、最大限に創意工夫したもてなしを最小限に絞り込んだ形で表現してみせようとしたのではないか?
それは現在のAppleのiPodやMac.の絞り込んだデザインにも通じるところがあるのではないでしょうか?

むしろ、そうした一度チャンスを逃したら二度とお客さんは訪れることはないかもしれないという一期一会の危機感が乏しい人がつくるデザインにこそ、そうした潔く無駄を省き、最大限の創意工夫を行うというストイックさが欠けるのではないかと感じます。

やたらとあれこれ思いつく限りを並べ立てるのがデザインではないでしょう。二度と会えないかもしれない人のことを考える一期一会の精神で本当に必要なものだけを並べて、自身の精一杯の創意工夫で客人を招くことこそがデザインなのではないかと思います。そして、その一期一会の精神でデザインしたものこそが、実際には千客万来の効果をもたらすのではないでしょうか?

  

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