千利休/清原なつの

清原なつのさんの『千利休』は、16世紀初頭に自由都市として栄えた堺に、ととや(魚問屋)の子として生まれ、北向道陳に「台子の茶」「書院の茶」を、武野紹鴎に「わび茶」「草庵の茶」を教わり、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕えた、千利休の生涯を描いたマンガです。

僕はこのマンガを読んで、デザイナーとしての千利休、そして、デザインと時代や経済というものについて、あらためて考えさせられた気がします。

茶の湯への興味、侘び数寄への興味

松岡正剛さんの『花鳥風月の科学』『日本数寄』、インテリアデザイナーで茶室のデザインなども手がける内田繁さんの『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁』、岡倉天心の『茶の本』、そして、利休の跡をついで茶の湯の革命をいっそう広げた古田織部を題材に描いた山田芳裕さんのマンガ『へうげもの』など、ここ最近、利休や茶の湯を扱った本を集中的に読んでいたこともあって、このマンガも読んでみようとamazonで購入した次第。

生まれてから70歳で自刃するまでの生涯を扱うだけあって、350ページを超える分厚い一冊になっていてマンガとしては読みごたえがありました。

実際には、僕がいま興味があるのは利休よりも織部のほうではあるのです。
でも、織部を知る上ではやはり、村田珠光を開山とする侘び茶を大成して茶聖と呼ばれ、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家の源流となった利休についても知らないと、織部の成したこともよくわからないのかなと思うわけです。それで簡単に利休の歩んだ道に関しても知っておいたほうがいいかなと思ったのがこの本を購入したきっかけでした。

利休という人

このマンガを読むと、利休が単に茶人であっただけではなく、信長や秀吉の傍で政治にも深く関わった人物であり、また、商人としても非常に長けた人物であったというイメージが湧いてきます。
また、楽焼の創始者で利休好みの黒楽茶碗や赤楽茶碗をつくった長次郎に対するクリエイティブディレクション、さらには信長の安土城や秀吉のためにつくった移動式の金の茶室や、自身の侘び茶の世界を具現化した二畳半の茶室・待庵などのアートディレクション。いまの言葉でいえばグランドデザイン能力を携えていた人であったことがわかります。

単に高い目利きの力を磨き、自身の数寄の世界を膨らましただけではなく、それを具現化し、かつ、広く社会に普及させた力。その総合的な手腕には驚くほかありません。

利休が生きた時代環境

利休の高い能力はもちろん、忘れてはいけないのは、利休が生きた時代背景でしょう。

利休が生きた安土桃山時代は、足利幕府の力が急速に弱まり、戦国の世の下克上が当たり前とされた時代であり、その中で国外から入ってくる新しい文化を積極的に取り入れた信長が天下の覇権を手に入れつつあった時代です。そして、その後、信長の意志を継ぐ形で秀吉が天下統一を成し遂げ、戦国の世の頂点に立つ。
一方で、経済的に栄えた自由都市・堺は、国産鉄砲の優秀な産地であり、かつ南蛮貿易を通じて鉄砲玉や火薬の原料となる鉛や硝石も手に入り、信長をはじめとする多くの戦国大名を顧客に軍需産業で栄えてもいました。

そうした武器の商売とともに、大名相手に飽きないされたのが、茶の湯で用いられる茶器などの名物でした。とりわけ足利義政由来の大名物といわれた品々は、1億円を超える価値をもった値で取引され、茶器1つで城が建つといわれるほどのものだったそうです。

利休が自身の侘び茶の世界を大成できた背景にはこうした時代的環境をなしには語れないはずです。

利休の時代の終わり

実際、秀吉が天下統一を成し遂げ、下克上の戦国の世が終わり、堺の経済的な隆盛もライバルとしての九州の都市の台頭や戦の現象による軍事産業の縮小によって下降線をたどると、秀吉と利休の関係にもぎくしゃくしたものが生まれはじめます。そして、最後には大徳寺の木像問題を発端に利休は自刃に追いやられて最期を遂げることになります。

そして、利休なきあと、侘び茶の時代は終わり、織部による武門の茶がはじまることになるのですが、それも家康による江戸幕府のはじまり、豊臣氏の滅亡とともに師・利休がたどったのとおなじように、自身の自刃による終わりを告げることになります。

こうしてみると、安土桃山時代というのは劇的な社会環境の変化とともに、時代の美意識が大きく動いた時代だったのがわかります。その中心にいたのが利休であり、織部だったといえるのでしょう。

しかし、社会環境の変化と時代の美意識がともに変化するのは何も安土桃山時代だけの話ではありません。いまもまさに社会環境も時代の美意識もつねに変化のなかにあるはずです。

そうしたなかで何をどうデザインするかは単に美の問題であるだけではなく、用の問題、経済の問題、政治の問題であることは避けられません。
果たして、いまデザイナーと呼ばれる人、自称する人にそれだけの意識があるのか? 自分自身も含めてそのあたりを疑問に思ったわけです。



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