良質のインプットは時間をかけることなく即座に昇華にいたる

使える時間は決まっています。ゆえに確保できる時間にも限界がある。

インプットにこだわるべきというのは同意するけど、早くスタートを切れるようなタネまでの距離はインプットだけでは全然埋まらない。むしろ、インプットを昇華するための時間を意識的に確保する方が遥かに重要では。

もちろん、ある程度、考える=昇華する時間を確保することは大事だけど、もっと大事なのは限られた時間のなかでより多くのアイデアの創発を起こすことではないか、と。それが他人より早くスタートを切るための秘訣だと思うのです。

より多くの経験を有していることで、より多くのセレンディピティが生まれやすくなる

なんでインプットにこだわり、経験の量を増やすことが、他人より早くスタートを切るための秘訣になるのか。

ここでのキーワードは創発です。
より多くの経験をもつ者ほど、新しい経験から何かを発見する確率が高まるのだと思うのです。金持ちほど裕福になるというあのパレートの法則とおんなじで、多くの経験を積んでいる者のほうが新たな経験からより多くのことを学ぶのだと思います。

つまり、そこでは時間と発見の量は線形の関係にあるのではない。時間と発見の量は、偶然の発見=セレンディピティ、創発をともなう非線形の関係になるのだと思うのです。

より多くの経験を有していることで、より多くのセレンディピティが生まれやすくなる。偶然の発見は確かに偶然の要素をもつのだけれど、それが生まれやすい状況を生み出すことなら可能です。

あるWebページが他のページからリンクされるかどうかは、内部からはコントロールしきれない偶然の要素によるものがあるとはいえ、少なくともほとんど人から見られないページに比べ、より多くの人がアクセスするページのほうがリンクをしてもらえる確率は高いとは言えるはずです。

それとおなじでより多くの経験の蓄積があれば、新しい何かとの出会いによって新しい発見、新たな気づきに出会う確率も高まるはずです。

より多くをもっていることで何かが創発して生まれる可能性は高くなる。「スタートを早めるためには、意図的に過去の経験の蓄積を増やさなくてはいけない」で、僕が意図した、経験を増やすことで、いまだ多くの人が気づいていないことに早く気づくことが可能になり、結果、スタート時期を早めることができるようになるという仮説のロジックは、そういう創発的な現象を期待してのことです。

良質のインプットは時間をかけることなく即座に昇華にいたる

1つ1つのインプットにこだわる眼力があってこその経験値」でも書きましたが、インプットは決して外部の物事をそのまま受け取るという実践ではなく、むしろ、外部の物事と自身の身体や脳の経験の歴史が生み出す生成としての実践です。

インプットそのものが生成であり創作です(逆に言うと何がしかのアウトプット=創作を生み出してはじめてインプットが完了するということなのかも。これはまた別の機会に)。
良質のインプット=発見は、時間をかけることなく即座に昇華にいたるものだと思います。

(前略)問題を考察するとは、隠れた何かを考察することだからだ。それは、まだ包括されていない個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識することなのだ。この暗示が真実であるとき、問題もまた妥当なものになる。そして、私たちが期待している包括の可能性を他の誰も見出すことができないとき、それは独創的なものになる。偉大な発見に導く問題を考察するとは、隠れている何かを考察するだけでなく、他の人間が微塵にも感づき得ないような何かを考察することでもあるのだ。
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』

欠けているパズルの1ピースを探すのと、それがそもそもパズルであることを気づくのとでは大きく異なる。しかし、もしかするとパズルのピースかもしれない要素が数多く見つかっているなかでそれがパズルであることを発見するのと、手持ちのピースがほとんどない状態でそれを発見するのとでは、発見の確率も大きく異なるはずです。他の人間が微塵にもそれがパズルであることに感づきもしないような、隠された包括的な一貫性に気づくのにも、過去にどれだけ多くの個々の諸要素に触れてきたかによって異なるのではないかと思うのです。

そして、その経験がある1ピースとの偶然の出会いによって、1つの包括的なパズルの像を浮かび上がらせることにつながる。これは1つのパズルだったんだという発見に、たった1つのピースとの出会いによって不意に気づかされることになる。
そこには用意された昇華のための時間など必要なく、いや、むしろ、偶然的な出会いであるそれを前もって用意しておくことなどできないのはずです。

とにかくインプットしてみて自分で評価を下してみる

だからこそ、インプットの昇華にこだわるよりも、1つ1つのインプットにこそこだわったほうがいいと思うのです。
何かを成し遂げるための、つまり、あらかじめ包括的な枠組みの定まった中でのインプットの収集ではなく、むしろ、自分でどうしてか気になってならないような、いまだ包括的枠組みの定まらない主観的なこだわりに賭けて、インプットを収集する取り組みが必要ではないかと思います。

インプットを得るきっかけは雑多でいい。誰かに紹介されたからとか、単に流行っているからでも。気になったものはインプットしてみたほうがいいと思います。よいかわるいかはインプットしてから決めればいい。インプットすればそれは自分の評価となる。外の評価を鵜呑みにしてインプットを怠るよりは、下手な評価でも自分自身の評価を試みるほうが経験量を増やす意味でははるかにマシというものです。

前に紹介した西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』では、『黒澤明、宮崎駿、北野武 日本の三人の演出家』から、こんな一文が引用されています。

たとえばセザンヌでも誰でも長いことかかって絵を描いているでしょ? 下手な絵描きっていうのはすぐ絵ってできちゃうんだよ。あんなには描いていられないんですよ。ということはねえ、あの人たちが見ているものを僕たちは見ていないわけ、あの人たちが見ているものは違うんですよ。だからあんだけ一生懸命描いているんですね。

この引用の前に、西村さんは「つくり手の観察力が低ければ、なんでもすぐに完成する」と書いています。

ようは、同じものを見るのでも見えているものが違うのです。
すでに完成されたパズルを見るか、いまだ視界に入りきれないより大きなパズルを見るか。

インプットとは創作にほかなりません。まだ見ぬパズルを完成させるには、多くのインプットを経験する過程が必要なんだと思います。

  

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