目利き。

変人であることは必要ない。普通でいい。」というエントリーに対して、ほりうちさんからいただいたコメントに、「他人どうしの共通点ではなく、違いに目を向けることなのかな、と思います。(中略)他人の違いをちゃんと肯定できれば、一人だけが違ってるってことはないってことが見えてくるんだと思います。」と書いてみて、改めて、ものを見る目、ひとを見る目を養うことの重要性に気づきました。

自分の「普通」をつくる

マスプロダクションの時代、科学の時代であった、これまでの時代はどちらかというと、個人の判断のばらつきをなくす方法ばかりが模索されてきた傾向はあったと思います。

  • 品質にばらつきがなく、商品名の単位で選択してさえいれば個々の商品選択は行わずに済むマスプロダクト。
  • 科学の実験並に、誰がやっても同じ結果がでるよう設計された、マニュアルに沿った形で特定の作業手順さえ修得すれば仕事ができるよう極度に専門化、細分化された業務プロセス。
  • 決められた方法に従えば正解が得られることを示す傾向が多い教育方針。

などなど。

しかし、昨日も書いたとおり、これからはどんどん、外にある「普通」に自分をあわせるのではなく、無数に存在するあれこれのもの、情報のうち、何が自分にとって普通といえるのかを自分自身でつくりあげる=判断するしかなくなってくる世界になっていくのだと思います。

何が正しいかを個々人が判断する必要性が今後ますます増えてくると予測できます。

ものを見る目、ひとを見る目

個々人が自分自身の判断力を磨くためには、ものを見る目、ひとを見る目を養わなくてはいけないと思います。
ものやひとに見られる微細な違いがわかる目を身につける必要があるのだと思います。

以前、「スキ!好き!数寄!」というエントリーでも引用しましたが、松岡正剛さんの『日本数寄』にこんな一文があります。

利休の観察力はあまたの茶人の歴史でも群を抜いている。
岡倉天心や幸田露伴ならいざしれず、とても利休にはかなう者はいない。
あの造形力は観察の賜物である。器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった。

利休の「器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった」目利きの力は、自身の好き=数寄を磨く上で最大の武器だったはずです。

それまでの唐様の茶器に対する物数寄から、自身が磨き上げた和様の茶器に対する物数寄へ社会全体を変化させ、唐様の茶器にくらべ価値が低いものとされていた和様の茶器の価値をそれに匹敵するまでに押し上げた、利休の主観的価値観は、科学のもつ客観的な価値観とはまた別の意味で大きな説得力を社会に対して、そして個々人に対して発揮していたものと考えられます。

主観的価値観を磨く努力をすればつよくなれる

すこし前ですが、「情報を理解する/情報を感じとる、あるいは、客観的判断/主観的判断」というエントリーに対して、tamaさんがこんなことを書いてくれていました。

みんなみんなきっと、本当に好きになるには努力がいって、腑に落ちて身について、本当にすきになったらきっと自分の口からアウトプットできるようになるんじゃないだろうかと。
自分がダイナミックにいろいろと判断できるようになれば、きっと世界はビビットに変わり、情報もいきなりダイナミックに動き出すんだろう。

僕は、このエントリーを読んで、ああ、そうか、主観的価値観を磨く努力をすればつよくなれるんだなと感じました。つよい人が主観的価値観を維持できるわけではなくて、むしろ、さまざまなものを見て、ひとを見て、その膨大な経験のなかで自身の主観的価値観を磨いていくことでしか、ひとはつよくなどなれないのではないかと思うのです。

目利きの力

そして、そのためには外から与えられたカテゴリーやジャンル、普通という価値基準や判断に頼るのではなく、外の意見に耳を傾けつつも、自身で個々の意見、情報、もの、ひとなどの違いを見分ける目を持ち、そこで自分の価値観を磨いていく、漉いていく(好いていく)ことが大事なんだろうと思います。

そう。目利きの力をあげることです。

どんな生き物も、進化論が記述する淘汰の圧力とは無縁では、存在し得ない。個別を生きる切実さが、統計的法則の冷酷と併存していることにこそ、生命の真実がある。個別の生が特定の様相を帯びることの背後にある科学的真理を了解することは、文学の扱う個別的体験の味わいを深めこそすれ、薄めはしない。科学の最良の部分は、文学の最良の部分に接近する。
茂木健一郎『クオリア降臨』

科学の客観性と芸術的主観性はおそらく決して矛盾するものではないのでしょう。
むしろ、その片方にばかり頼ってきたここ最近の百数十年こそが異様だったのでしょう。

僕らはもう一度、客観性に匹敵する主観性の価値を取り戻していかなくてはならないのでしょう。

そんなことを思いつつ、買ったまま、読まずにほったらかしていた『天才 青山二郎の眼力』なんて本もそろそろ読んでみてもいいかなと思うのでした。

  

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この記事へのコメント

  • tama

    はじめましてこんにちは、いつもブログ楽しみに拝見しています。
    自分の書きなぐりブログの引用が、松岡正剛さんと茂木健一郎さんの間に挟まれていてびっくりしました!ご覧頂きありがとうございます。

    ちなみに、私は松岡正剛さん校長の編集学校などの学徒でもあり、ただいま”目利き”の修行中です。これまで客観的判断ができなかった私も、一歩踏み出したらすこしずつ視界が晴れてきて、自分の力で情報をよりわけ、自分の血肉となっていきそうな感じを体感しています。(って、本当にまだまだですけれど…)こうなると本当に楽しいんですね、毎日が。考えることがどんどん好きになっていく、でもまだまだだ。と反省してはまた考えて、その繰り返しの毎日です。

    棚橋さんのブログからも毎回吸収させていただいてます。ただの”共感”にならないよう、これからも自分なりに咀嚼して、考える材料にさせていただきたいと思います。

    ではでは。
    2007年10月31日 16:34

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