変人であることは必要ない。普通でいい。

ところがどっこい、変人である必要すらないのです。

普通であることは必要ない。変人でいいのだ。

この場合は、外部に指標を置いて「普通」かどうかを判断し、その普通にこだわらずにいることを「変人」としているのだと思います。

確かに外部指標である「普通」にこだわる必要がないという意味では正しい。しかし、それにこだわらないことを「変人でいいのだ」と表現したのでは、いまだ外部の「普通」という指標の有効性を肯定していることになります。

その点で僕は「ところがどっこい」と思うのです。

外部指標としての「普通」

これまで普通であるかどうかを判断する場合、多くはその人固有の属性に基づく判断を行うというよりも、むしろ、各人にとっては選択可能な、つまり交換可能で、付属的な属性により判断が行われていたことに目を向けるとよいのではないでしょうか。

  • あれこれを持っているのは普通/変人。
  • あれこれを好むのは普通/変人。
  • 普通/変人はあれこれの場合、こうするよね。

あらかじめカテゴライズされ、ジャンル化された人工物の好き嫌いだったり、人工物やその性質に関する選択/非選択の区分によって、普通だったり変人だったりの判断がなされてきたのがこれまでの判断です。
つまり、外部の人工物に対する好き嫌いや所持/非所持の選択/非選択の分布によって、普通/変人の区別も行われてきたのだと思います。

みんなが持っているもの、好きなものを好きになることが普通で、少数者が持つもの、好むものを選ぶのが変人だと。

つまり、普通/変人の指標は外部化されている
それはある意味では数量的であるがゆえに、客観的な判断だといえます。

でも、それって果たして今後も妥当性のある判断なんでしょうか?

ベキ分布の世界では「普通」は意味をなさない

僕はそうは思いません。
だって、世の中、だんだんと平均値が意味をなす正規分布の世界から、平均値が意味をなさないベキ分布の世界へと移行しつつあるのですから。

みんなが同じ時間に同じテレビ番組を見たり、数少ない商品群から必要なものを選んだりする正規分布の世界であれば、平均値、つまり「普通」は何らかの意味をもつでしょう。
しかし、無数に存在するYouTubeのファイルを各自が勝手に閲覧し、もはや無数に存在するもののなかから必要である以外のものを自分の好みで選択するベキ分布の世界では、平均値=「普通」であることはあまり意味がありません。

「普通」であることが要をなすためには、平均値や正規分布が存在していることを前提してるはずですが、これだけものや情報が増えると正規分布や平均値は意味のある判断基準ではなくなるのです。

ものや情報の量が増えると、分布は正規分布ではなくベキ分布に近くなってくるはずです。ヘッドは限りなく高くなり、テールもまた無限に近く伸びていきます。
ベキ分布で平均値をとっても長いテールが平均値を限りなく低くとどめ、その数値からはヘッドの高さに関する情報はまったく得られません。

海を水素原子と酸素原子と比較しても意味はない

ベキ分布の特徴は、単にひとつのヘッドが突出しているということではなく、その一部を取り出してもやっぱり相似のべき分布がみられる点です。

つまり、どこまでいっても上には上があるし、下には下がある世界です。
もちろん、その世界に平均値はない。普通はないし変人も存在しない。

隣にいる人は自分に似ていても、すこし離れた人は大きく違っている。でも、その大きな違いをもつ人を含めたグループも、もっと遠く離れた人とはまるで似ていない。

水分子は、水素原子と酸素原子からなるが、それはそのいずれにも似ていません。水も氷も水分子からなりますが、それらは普通の意味では似ていません。また、水分子と海は大きく異なります。ましてや、海を水素原子と酸素原子と比較することに意味はありません。

ベキ分布の世界とはそういう世界です。
要素の分析だけでは全体を把握できない。ジャンルやカテゴリーによる理解では、総合的な判断ができない世界です。

「普通」かどうかの判断は外にゆだねるのではなく内に見出すしかない

ジャンルやカテゴリーといった外部の要素を分析的に理解すること(「分かる」ことは「分ける」こと)といった判断が通じにくい世界になってきているのだと思います。

外部指標としての「普通」=平均値を参照して、普通/変人の判断を行うことが無意味になってきているのだと思います。上にはどこまでいっても上がいて、下にもどこまでいっても下がいる世界では、ある地点での普通/変人の判断を行ったとしても、それはすこし離れたところからみればすこしの違いも見出せないような違いでしかないのですから。

では、どうすればよいのか?

もはや「普通」かどうかの判断は、外部ではなく内部に求めるしかないのだと思います。
外にある「普通」に自分をあわせるのではなく、無数に存在するあれこれのもの、情報のうち、何が自分にとって普通といえるのかを自分自身でつくりあげる=判断するしかないのだと思います。

だからこそ、自分の好みを磨く必要がある、自分の主観的判断を磨く必要があるんだと思います。

そのような意味において、変人であることは必要ない。普通でいいのです。

ってなところがわかってないと、スピードを上げたくても、ありもしない普通を追従するのに時間を無駄にしたり、天邪鬼に変人を気取ってこれまた徒労に終わるなんて結果になりかねませんから

みなさんも自分の「普通」を発見=つくってくださいね。

   

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この記事へのコメント

  • ほりうち

    「ところがどっこい」、ありがとうございます(笑)。

    普通・変人の分けは、確かに外部評価だし、遠くから見れば違いはない。でも、自分とその周囲にとっては違いが大きく見える。異端視されることも排除されることもある。

    そんな中で、自分が人と違っても良いのだ、と肯定できることって、とても重要。(わたしが小心者だからかもしれません・笑)。

    誰に変だといわれても、それが本人にとって、きちんと判断した「普通」ならつらぬけってことですね。
    まだ何にも成れていないわたしですが、がんばります。
    2007年10月30日 03:53
  • tanahashi

    他人どうしの共通点ではなく、違いに目を向けることなのかな、と思います。

    カテゴリーやジャンルは共通点を肯定するもの。
    そうじゃなくて、他人どうしの違いこそを肯定すると、そのなかで自分が違うということも当たり前のことになってくるんじゃないかな。

    他人の違いをちゃんと肯定できれば、一人だけが違ってるってことはないってことが見えてくるんだと思います。

    自分を磨くっていうのは結局、そういう意味で人やものを見る目、違いがわかる目を養うことなんだろうなと最近思っています。
    2007年10月30日 10:06

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