そのため、企業における価値基準も6σが志向されるように、いかにバラつきを減らし、品質を標準化させるかを目指す方向にあります。
しかし、果たして、決して高くはない品質で標準化された商品と、品質にバラつきはあっても平均すれば非常に高い品質をもった商品では、いったい、どちが魅力的なのでしょうか?
形がいびつなきゅうりと真直ぐ揃ったきゅうりでは、どちらがおいしくなる可能性が高いのでしょうか?
ヨーロッパではモノの品質が成長する
再び、奥山清行さんの『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』を参照すれば、ヨーロッパでは自動車や家具が、初期の製品と後期の製品ではかなり違ったモノになることは、普通のことだそうです。今、評価の高いミッド・センチュリーの名作(1950年代を中心に製作されたもの)なども、実際のデビュー当時は板が波打っていたりと、ひどい代物だった。それが、生産が進むにつれて品質が「よくなって」いく。まるで「もの」が人間のごとく成長するかのようだが、ヨーロッパの消費者には、こうした「成長」を受け入れている部分がある。
この例だけでなく、生産台数が少ないフェラーリなどは初期モデルと後期モデルではかなり違うそうですし、多くの家具も「最初のうちは職人も慣れていないので、椅子の革張りなど、ひどくシワが寄っていたりする」のが、だんだん改良されて10年経った頃には非常にきれいに仕上がり「名作」に変身するのだそうです。
形が整っていないほうがおいしいことに気づきはじめた日本の消費者
いっぽう、日本では車も家具も品質に他と違ったところが見られれば、すぐに不良品だとして交換を要求することが当たり前になっていると思います。スーパーマーケットでは、形が整った野菜を選んでしまったりもします。
しかし、中には、形が整っていない野菜のほうがおいしいと気づいている人もいます。
「有害なワックスなどに高いお金を払いたくない」、「汚れていても安全でおいしいほうがいい」と考える人も増えてきています。
また、ダメージ加工やヴィンテージ加工がされたジーンズなどの服飾品でも、機械で均一に処理されたものより、手作業で一点一点異なる加工が施されたようなもののほうが価値が感じられたりする傾向も見られます。手縫いのスーツやシャツの良さをわかる人も増えています。
日本の消費者もすこしずつ変わってきているのかもしれません。
機械と人間の手
大量生産でつくられたものと人の手でひとつひとつつくられたものでは何が違うのでしょう。フェラーリにしても家具工場にしても、生産ラインでは現場の人たちが、使い勝手のいい専用の道具を編み出しながら、製品をひとつひとつ改良していく。
人間中心設計プロセスの考え方では、反復デザインという考え方に基づき、プロトタイピングやユーザーによるデザイン評価などといった形で、ユーザーの知覚品質を向上していきますが、こちらは逆にものの側、つくり手の側から品質をあげていくアプローチです。これは共に美しいと思えるアプローチだと僕は思っています。
人間の手は機械では実現できないような緻密で繊細な調整を行うことができます。
『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』でも、フェラーリの職人が機械では調整不可能なエンジンのカムシャフトの微妙なブレをハンマーの一撃で直してしまう例が紹介されています。
その点では、日本の職人もまったく負けておらず、楽器工場では同じように機械では調整のできない、トロンボーンのスライド部分の微妙なブレを職人が手で一発で曲げて直してしまうそうです。
最初にも書きましたが、大量生産では機械に均一な仕事をさせることで、商品の品質のバラつきをなくすことが目指されます。しかし、しょせん、機械にできるバラつきの調整などは、優秀な職人の手による繊細な調整とは比べられないほど杜撰なものなのです。
それにこんなこともあるでしょう。
手でざっと書いたラフスケッチが非常に魅力的に思えて、それをあらためてPhotoshopなどのツールを使って描きなおしてみたら、手描きのときにはあった魅力がきれいさっぱり失われてしまったなどということが。
チェーン店の食事と一流のシェフがつくる食事、さらには家庭で母親がつくる食事。
おいしいのはいったいどれでしょう? そこではバラつきが重視されることがあるでしょうか?
人間の行うサービス
商品とは異なり、人間の行うサービスに関しては、日本でもある程度のバラつきは消費者も受け入れてくれます。人がやることだから許容範囲のバラつきはしょうがないと思っている人が多いでしょうし、プラスの方向へのバラつきはむしろサービスを受ける側も喜びます。
僕らもサービスを提供しているわけですが、新人など明らかに求める品質に達しない場合などは別として、人によるやり方の違いなどは、お客さんの側もやり方に対する好みはあるにしても、やり方が違っていること自体をどうこう言う人はほとんどいません。
むしろ、人それぞれの良さも悪さも当然のものとしてとらえてくれます。
それは自分がサービスを受ける側でも同じです。
単に良いものは良いな、悪いものはやだなと感じるだけで、バラついていること自体には不満を感じることはありません。
その意味では、サービスというのは日本でもわりかし、イタリアでの車や家具と同様に「成長」させることで、初期の段階とある程度、提供をしはじめてから慣れてきてからでは、サービスのクオリティもかなり違ったものになります。
最初はまったくスマートさもスムーズさも欠いた形で行われるサービスも、提供者の慣れや工夫がサービスをスマートで魅力的なものに変えてくれることも多いと思います。
人の手が行う「成長」に期待してもいいのでは
そう考えると、サービスとは異なる商品にもおいても、そろそろ人の手が行う「成長」に期待してもいい時期ではないかと思います。大量生産のバラつきはないが一定以上の品質は望めないものよりも、人の手が生み出す繊細で深い品質の商品に期待してもよいでのはないかと思うのです。
「これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね」では、「必要だから仕方なく買うもの」をつくるのはいい加減にやめて、必ずしも必要ではなくても「欲しくて仕方がないもの」をつくり、すぐに飽きたらまだ使えても捨てる消費の仕方から、使うほど味が出て長く大事に使ってしまうという維持に変わっていく必要があるだろうという旨のエントリーをまとめました。
ものづくりの側からみても、どうでもいいものをつくって飽きては捨てられるより、気に入ってもらってずっと持っていてもらえるようなものをつくれたほうが、仕事のやりがいになると思います。
ものを買う側、使う側も、どうでもいいけど仕方なく買って使うようなものよりも、本当に気に入って奮発して買って、大事に使いたい、持っておきたいと思うものを手にしたほうがうれしいのではないでしょうか。
単に空腹を満たすだけのものよりも、どうせならおいしいものを食べたいのではないでしょうか。
それには何より、人の手が生み出すものの魅力をあらためて見直し、ものづくりを機械から人の手に奪い返していくことが必要なのだと思います。
そして、ずっと昔に「「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想」というエントリーを書いたこともありましたが、個々人はもっと「自分にしかできない仕事」にこだわってみてもよいはずです。
関連エントリー
- 伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日/奥山清行
- これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね
- 「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想
- 自分をつくる:其の1.うまく時間管理を行い複数の案件をつつがなくこなせるようになる
- 自分をつくる:其の2.クリエイティブ・クラスも営業力を鍛えるCommentsAdd Star
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