昨日のエントリー「これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね」でも紹介した奥山清行さんの『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』を読んで、あらためて大事なことだと感じ、このブログでも繰り返し訴えていかないといけないと思ったのはそのことです。
奥山さんは、日本のものづくり組織の問題として、縦割りの組織になっているということを挙げています。
部門が縦割りのため、真っ先に必要な「このような『もの』をつくりたい」というビジョンは、商品企画の人が考えればいいのか、それともデザイナーなのかエンジニアなのかが明確になっていない。さらにそうした人たち自身、自分というものがわかっていないから、何をつくりたいかがわからない。そのうえ残念なことに、一緒に話をするコミュニケーション能力がない。奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
この一文だけで3つの課題があります。
- 縦割り組織でものづくりのビジョンを考える役割が明確でない
- 自分の好き嫌いがわからず何をつくりたいかがわからない人が多い
- 他の人とコミュニケーションする能力に乏しい
こうした課題が指摘されるのは、日本は優秀な職人の技をもった人が大勢いるにもかかわらず、その強みをものづくりに生かせていない現状があるからです。
日本とイタリアの職人の違い
奥山さんは、日本とイタリアを比較して、ともに優れた職人の巧みの技をもつ国であるのに、一方のイタリアの職人には日本円にして年収3000万円を超える塗装職人もいるなど、職人への尊敬や社会的地位とそれに見合った待遇があるのに対して、日本では同じように世界的に高い水準をもった職人が年収300万円ほどで、社会的にも給与的にも冷遇されている格差を比較しつつ、両国のものづくりの成果について言及しています。すなわちフェラーリやグッチをはじめ多くのブランド力をもった商品を生み出すものづくりの国のイタリアと、企業名ばかりが目立ってつくり手の顔が見えないブランド力に乏しいものづくりを続ける日本との違いを。
イタリアには「自分にしかできないこと」を探す職人が数多くいるそうです。一方の日本の職人は「自分にしかできないこと」を探すことを怠り、「与えられた仕事をやること」に甘んじてきてしまいました。
もちろん、それは職人のせいだけではなくて、大量生産が商品個々のバラつきを極力なくそうとする方向を目指したせいだからでもあります。
一方、イタリアではそのバラつきさえも美徳と感じる傾向があるそうです。
フェラーリやランボルギーニは、かつてドアなどはその車ごとに単体で合わせてつくっていた。だから、単体ではピッタリ合っているけれども、事故に遭ってドアを交換するべく取り寄せると全然合わない-ということも起きた。現在はそこまで極端ではないが、でも、それがイタリアの自動車なのである。奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
つまり、イタリアのものづくりには職人の手づくりを尊敬する文化があり、バラつきをなくそうとする大量生産的方向性よりも、バラつきを許容してでも職人によるものづくりの良さを優先しようという傾向がつくり手の側にも受け手の側にもあるということです。
だからこそ、自分が何が好きで何が嫌いかがわかっていなければ、何をつくっていいかもわからないし、何を買えばいいのかもわからない、ということなのだと思うのです。
職人の生産しながら開発していける能力
僕自身、プロトタイプの重要性を説明する際には「つくりながら考える」ことが利点であるといっていますし、本書の後半で言及されるリチャード・フロリダの『クリエイティブ・クラスの世紀』で考察されるブルーカラーでもホワイトカラーでもない「クリエイティブな業務に携わる人」という新しい社会階層も自分で考え、創造できる人々で、まさにイタリアの職人がそれに当たります。職人ならではの大きな特徴は、生産しながら開発していけるという能力だが、その点を理解する人がいない。だから知識労働者であるはずの職人が、日本では肉体労働者のカテゴリーに入れられるのだ。奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
本当にこの「つくりながら考える」ことや「手を使って考える」ことの大事さがわかっていない人が多いと思います。プロトタイプをつくるどころか、絵も描かず、さらに最悪なことにみんなが見えるようにホワイトボードで発言の記録さえせずに行われる無駄な会議が平気で繰り返されたりします。
そんなことでものづくりなどできるはずがありません。クリエイティブな発想が出てくるはずはないのです。にもかかわらず、多くの会社でろくに手をつかった仕事をしたこともない人たちが高い人件費を費やして無駄な会議で時間を浪費している。その一方で高い技能をもったクリエイティブ・クラスである職人に「与えられた仕事」だけをやるようにして、本来もつはずの生産しながら開発する能力を封じ込めてしまっているのです。
日本のものづくりの問題点
先にも3つ奥山さんが指摘している、日本のものづくりの問題点をあげましたが、本書で指摘されているほかの点に関しても以下に抜粋しておきます。- 均質のものを大量につくる大量生産では職人の知識労働を排除する方向を目指してしまう
- 販売に戦略と実行力が乏しく、「技術さえあれば売れる」と頑なに信じてしまっているフシがある
- いまだに「デザイン」を色や形、装飾のことだ認識している
- 問題解決力は高いが、問題発見力が著しく低いため、すでにさまざまなモノが溢れ返っている市場で未来に何が必要かを見つけ出すことができない
- 企業色ばかりがあまりに強く出すぎていて、商品のつくり手の顔がみえない
- 買い手も自分が好きなものをよくわかっていないため、「みんながいいというから私も買う」となってしまい、小さなブランドが育ちにくい市場環境になっている
と、これだけ問題点ばかりあげるとお先が真っ暗な感じがしてしまいますが、奥山さんはもちろん、日本の優れた点も指摘しており、「想像力/思いやり」と「犠牲心/自己犠牲」が日本の何よりの特色であり、いまの携帯電話のようにやたらと機能を足し算していくものづくりではなく、茶室などに見られるような「引き算」の構成力も評価しています。
地場産業による農耕型のものづくり
昨日も書きましたが、現在、奥山さんは独立してKen Okuyama Design代表を務めるとともに、山形カロッツェリア研究会を主宰し、天童木工をはじめとする地域の中小企業とともに地場産業の活性化に尽力しています。これは300名以下の中小企業が世界を股にかけたビジネスを展開するイタリアを見本にして、伝統的な職人の技術を活かし、土産物ではない、現在の生活にリアルに使われるものを世界に発信していくための基盤を、大企業にではなく地域に根付いた中小企業にこそ求めようという姿勢のあらわれです。
大量生産を行わざるを得ない大企業ではなく、生産数は限られるものの、フェラーリのように世界的なブランドとされるものづくり企業になるためには従業員規模をある程度限る必要がありますし、職人が「自分しかできないこと」を探し、それを実現していく環境もまたそのような中小規模の企業となるでしょう。もちろん、中小企業だからといって大企業の下請けになるのではなく、イタリアの中小企業のように自身で世界を股に販売戦略を実行し、ブランド力を高めていける中小企業です。
道は険しいと思いますが、この道を行く以外に日本のものづくりは先がないだろうなと強く感じます。
それには何より、つくり手も、買い手も、自分が何が好きで何が嫌いかがわかっていなければどうにもならないのだということを早く気づかないといけません。そして、それには自分自身が手や身体をつかってものを経験することだということです。ものをつくる際にも、ものを使う際にも。
そこからしかはじまらないのではないでしょうか。
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この記事へのコメント
TQY
そこでも日本の伝統的な製紙技術の技術力が、なかなか国内外の市場で評価されない状況に話が及びました。
おっしゃるとおり、こうした技術を上手にプロデュースすることが、まだまだ足りてないのですよね。
職人さんがセルフプロモーションをするというのは、一夜には難しいとは思うのですが、いずれそうしないと後はないというように思いました。
そうなったら問屋はいらんやん。というのではなく、相補的なネットワークになっていければ理想ですよね。
tanahashi
最終的には職人さんのセルフ・プロモーション力ですが、おっしゃるとおり一夜ではむずかしいので、その前段階で、外部からプロデュース、触媒的な作用をする人に関わってもらうことが必要なんでしょうね。
この本の奥山さんもまさに山形でそのような活動をされています。
これは日本のブランド、ものづくりのあり方として結構重要な課題だと思っています。
薩摩拵
永野
さらには企業文化自体を上手く演出できるコーディネート力などは資生堂を見れば分かります。
大田武
梶原
マルコス