やっぱり今の時代、数奇のこころが重要なんじゃないかと思うんです。
マンガ『へうげもの』の主人公、古田織部なんかをみているとうらやましくなります。中途半端なものは欲しくない。
もう「必要だから仕方なく買うもの」をつくってはいけない。だってゴミだから。
だからこそ、こんな言葉にはとても共感します。私が日本でつくろうとしているのも「必要はないけれど欲しいもの」である。「必要がないもの」というと、資源をムダなゴミにするものと思われるかもしれないが、それは逆だ。私は、日本のような国は、もう「必要だから仕方なく買うもの」をつくってはいけないと考えている。
「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらなければならない。そういうもののほうが、長年にわたって使われるからだ。そして人生を豊かにしてくれるからだ。奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
こう述べるのは、イタリアのピニンファリーナ社で、エンツォ・フェラーリやマセラッティ・クアトロポルテのデザインを担当し、現在、Ken Okuyama Design代表であり、山形カロッツェリア研究会を主宰し、天童木工などにより地場産業の活性化に尽力する奥山清行さんです。
日本製の携帯電話とか特にそうですよね。マジ、なめてんのかって思います(笑)
「必要だから仕方なく買う」けど、どう考えてもモノとしての魅力は著しく欠けていて本当は「欲しくはない」んです。
ゴミみたいなものを大事にしろと言われてもね。
前に紹介した西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』にもこんな一文がありましたよね。たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで。裏面はベニア貼りの彼らは。「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。(中略)やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ」という、人々を軽くあつかったメッセージを体現している。
そう。適当につくられたもの、デザインされたものなんて本当は欲しくない。でも、用途としては必要だから買わなくてはいけない。で、もともと気に入って買ってるわけではないから、不要になれば捨てられる。
「モノを大事にしろ」って言われたって、そんな適当につくられたモノまで我慢して大事にしなきゃいけないのは酷です。ゴミみたいなものを大事にしろとかいう前に、もっと大事にしたくなるようなものをつくってほしいわけです。
長く大事に使えるもの
デザインとものづくりが奇妙な形で分裂してしまい、大量生産のなかでものづくりが機械にとって代わられたかに見える現在では、デザインはマーケティングの道具として、まだ使えるものまで古く感じさせ、それを捨てて新しいものを買ってもらうための手段と化してしまっています。デザイン(意匠)という用語が使われはじめたのはそれほど古くなく、1人の人間が物を1人ですべて考案して制作してきたときは、あえてデザインという言葉は使われていなかった。歴史を紐解くと、デザインという用語が使われはじめたのは、産業革命以降に物づくりに分業化がはじまった頃からである。ユーザーエクスペリエンスという言葉も、その場しのぎのものではなくて、そういう長い目で見た視点で理解しなきゃいけないと思います。井上勝雄「1章 インダストリアルデザイン」
『デザインと感性』
ものづくりの陰にある破壊を意識する
奥山さんはこんな風にも言っています。粗末に扱わずに大切にすることは、「もの」を買ってきて使う場合の徳目である。この点で私は、「ものづくり」をする人間が、わきまえておかなければならない規範があると考えている。
というのは、「もの」を創造するときは必ず、どこかで同時に破壊行為が行われている。建築をするときは森で木が切り倒されているわけであり、自動車をつくる陰には、大地を削って鉱石を掘り出し、エネルギーを注ぎ込んで精錬している。奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
もはや、これからはすぐに捨てられるようなものならつくらないほうがマシだと考えなくてはいけないのでしょう。奥山さんはこんな風に続けます。
破壊行為を上回るだけの「もの」の価値がなければ、新しいものはつくってはならないのである。奥山清行『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』
そして、ものづくりをする人が心底そう思ってそれを実践できるようになるためには、モノを買うほうの人もモノの価値を見極められる眼を養い、自分が本当にほしいものをわかるようにならないといけないのだと思うのです。
そういう意味で、やっぱり今の時代、数奇のこころが重要なんじゃないかと思うんです。
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この記事へのコメント
アサノ
デザイナーが「これからは、フェティシズムだ。」と言っているのを聞いて、瞬間的に理解できなかったことがある。
多分、こういうことだったんだなと思います。
tanahashi
奥山さんの本には、イタリア人は自分の好き嫌いをはっきりわかっている、日本人はそれがない、とありました。
でも、日本にも過去から多くの数奇者はいた。利休にしろ、織部にしろ、魯山人にしろ。
そういう文化こそ、もう一度、デザイン・ものづくりの現場で再生する必要があるのかな、と。
jazzfantasista
共感できる部分が多くありました。
深澤直人氏の
「デザインしないこともデザイン」
という考え方や
ナガオカケンメイ氏の
「ロングライフデザイン」
という考え方も
合わせて考えてみると
とても心に染み入るエントリーですね。
これからも立ち寄らせてくだだきますね。