仕事をしていく上でも前者の方法しかとれない場合、結局、誰かに与えられた仕事しかこなせません。「自分の仕事をつくる」ことを考えれば、最初は誰かの物真似からはじめても、何度か繰り返すうちに自分の頭で考え工夫して、最終的には自分独自のスタイルを生み出せる力をもつことは必要です。いわゆる守・破・離ですね。
自分がやりたいと思うことをやれるようにするためには、自分がこだわりをもつ部分を捨てたくないのなら、守・破・離のプロセスで自分のスタイルを生み出す力を養う必要があるのだと思います。
猿真似の秀吉、守・破・離の織部
信長や秀吉につかえた武将であり、かつ利休に茶を学び利休の跡をついだ数奇者である古田織部(佐吉)を主人公にしたマンガ『へうげもの』のなかで、利休がともに自分の茶の弟子である秀吉と織部に対し、「真似はいけない」と諭すシーンがあります。この「渋庵」はいけませぬ
私の作った「待庵」の真似にございましょう
露地から窓の配置に至るまでなんの工夫も見られませぬ
わび数奇の心を真似るは結構ですが
形だけの真似を見せられては空々しく感ずるものです
信長公を超えてくださりませ
今のままでは真似の域を脱しておりませぬともに、山田芳裕『へうげもの』
利休に「真似」といわれた織部と秀吉の反応は180度異なります。
織部がその後、地元の美濃で、自分自身のスタイルによる「織部十作」と呼ばれる茶碗をつくろうと行動するのに対して、秀吉は「真似で結構」と開き直り「俺は信長様をなぞりきる」と自らに誓います。
すでに存在し認められている価値観に従い行動するか、自分のこだわりを追求し工夫をこらしながら自らの価値観をスタイルとして生み出すために行動するかの違いです。
へうげもの=数奇者
「へうげ」とは、ひょうげ(剽軽)であり、ふざけおどけることを指す言葉です。自分のこだわりを追求し工夫をこらしながら自らのスタイルを生み出そうとする織部の行動は、ときに他人の目からはふざけた行動とさえ映りかねません。価値観の定まっていない状態で、何をしようとしているのかわからない行動を真剣にとろうとするのですから、そう見られても仕方ありません。しかし、新しいものを生み出すというのは得てしてそういうものではないでしょうか。自分のこだわりに素直になろうとすればするほど、そう見られるのはいたしかたないことだと思います。
結局、そうした他人の目を気にするか、自分のこだわりに正直に生きるかの問題です。「スキ!好き!数寄!」でも書きましたが、「自分の好みを磨くためには、それなりの覚悟とそれ相応の時間や実践が必要」だと思います。それが数奇の心なのでしょう。すでに価値観の決まったなかでのバランスを崩してでも、自分なりの新たなバランスを生み出すことができるかどうかが「仕事を自分のものにできるか」の瀬戸際にあるのではないかと思います。
工夫をこらす
それにはまず第一歩として、自分で考え工夫をこらすクセをつける必要があるのだと思います。工夫をこらすためにはまず自分のやっていることを客観的に捉えることが必要です。自分のやっていることを客観視するには、他の人がやっていることを観察し、自分のやっている方法以外のオルタナティブにも目を向けることです。
利休にしても、織部にしても、後の世まで数奇者と称される人はとにかく観察眼が優れているのだと思います。物を見る目も、人を見る目も。より多くを観察し、より細かな違いまで見分ける目をもつことでしか、自分のやっていることを客観視して、そこから自分のスタイルを築き上げることはできないと思います。
工夫とはそういうものです。1つのものをただ単純に真似るのではなく、世に無数にあるものを観察し真似ることで、複数の要素を編集しなおし、自分なりのスタイルを見つけていく作業なのだと思います。創意工夫といいますが、それは決して何もないところから何かを生み出すことではなく、結局は守・破・離のプロセスで既存にあるものを新たに自分好みに編集しなおす努力のことだと思います。
他を知る以外に自分を知る方法はないのだと思います。その意味でも日々、自身の観察眼を養っていく努力は大事です。
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