2007年09月22日

デザインとこれからの時代の経営課題についての一考察

デザインするということやシステム化するという点についての僕らの認識はあまりに甘すぎるし、狭すぎます。

いかに僕らが普段、デザインを組織のマネジメントやワークスタイルにも関係の深いアーティフィシャル・サイエンス(人工の科学)の問題として捉えられていないか。僕がハーバート・A・サイモンの『システムの科学』を読んで感じたのはそういう点でした。

企業にも個々人の仕事にも創造性が求められる時代

モノが余り市場での既存の価値の飽和が続くなか、企業の経営課題は生産性・効率化から既存にない価値そのものを創出する創造性に移行しています。生産性・効率化を可能にする機械論的な組織から、創造性を高めるためにどうやって創発・セレンディピティを組織のなかで生み出すか、また、そのための組織はどうあるべきかに課題は移ってきています。

とうぜん、それにともない、組織のなかでの個人の働き方にも変化が促されます。
専門性、分業を中心にし、生産性・効率化のためにマニュアルやガイドライン、仕様書などのドキュメントベース・形式知ベースのコミュニケーションを行ってきたワークスタイルから、T字型のスキルをもった人たちが分野横断的に交わりながら、形式知のみならず身体的な知や、モノや環境、人との相互作用のなかにある知、協働作業の場における知などの暗黙知をも活用して、いかに創発を生み出すか、セレンディピティを可能にするかがワークスタイルへ。組織的な創造性を高めることを目的とした新しいワークスタイルの試行錯誤が問題になってきています。

組織の創造性を高めるという点で、IDEOのトム・ケリーが書いた『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』がいまだに新鮮さを失うことなく読まれ続けているのもそういう文脈においてだと思います(もしまだ読んでいないのなら必ず読んでおいたほうがいい本です)。

『システムの科学』を参照する

『システムの科学』のなかでハーバート・A・サイモンが強調したのもそういうことでした。

サイモンは、アーティフィシャルなシステムにおいては、その部品が静的だったり孤立的だったりするのではなく、むしろ、自然物を含めた外界とシンセティック=合成的な動向の一部に存在し機能していると強調します。あるシステムには必ず外界とのインターフェイスが存在しており、それらとの相互乗り入れ的な組み立てになっているということです。

そういう意味でどんなシステムも独立し自立していないのですが、生産性・効率化の視点にたった僕らの目には、それらはつねに擬似独立的に見えてしまうのです。
インターネットという相互にリンクのはられたなかで1つのWebサイトをつくる際でも、ある環境におけるある目的を達成するために用いられる製品をデザインする際でも、また、相互に作用しあうことで1つの成果を生み出す組織内で部門や従業員の役割を決める際にも。

実際にはそれらは独立的に存在するのではなく、すべて外界とのインターフェイスとして相互作用的に機能する意味においてシステムとして、人工的にデザインされたモノとして機能するはずです。
しかし、そうした視点がこれまでのデザイン論、システム論にはあまり見られなかったのが問題です。いや、デザイン論やシステム論にはそうした視点をちゃんと持ったものもあったのですが、そうしたデザインやシステムの問題をきちんとマネジメント論、組織論の問題として捉えてこなかったのというのが問題なのです。

バラつきをなくそうとグレーな部分をできるだけなくそうと境界を明確にして細分化をつきつめた結果、総合的な意味ではかえってグレーな部分が増えてしまったというのが現在だと思います。それは20世紀の還元主義の科学が陥った失敗と重なるものでもあります。しかし、科学自身はすでにそうした自らの失敗に気づいて方向性の修正をはじめています。問題はいまだ修正の方向がみられないマネジメント論、組織論の分野だと思います。

分析的思考の限界

「分かる」ためには「分ける」というのがこれまでの分析的思考の特徴です。問題は、「分ける」ことによって「分かった」要素の意味が固定的に(静的に)捉えられてしまうという点です。しかし、先にも書いたとおり、「アーティフィシャルなシステムにおいては、その部品が静的だったり孤立的だったりするのではなく、むしろ、自然物を含めた外界とシンセティック=合成的な動向の一部に存在し機能している」のが本来です。

記号論においては「統治論」「意味論」「実用論」の3つの考えた方があります。エイモス・ラポポートの『構築環境の意味を読む』から引用すると、それぞれ次のようなものになります。

  • 統治論:記号体系における記号と記号の関係、つまりその体系の構造に関する研究。
  • 意味論:記号と指示対象の関係、つまり、記号が要素の意味や特性をどう伝達するかということ。
  • 実用論:記号と人々の行動的反応との関係。つまり、記号を行動全体の一部として解釈する人に与える効果、そして記号とその体系の外部の現実に対する関係、ひとことでいえば、記号の意味をあつかうもの。

従来の分析的思考が対象にしてきたのはこの記号論の3つの分野のうち、「統治論」と「意味論」のみだったと思います。要素間の構造や各要素の静的な意味には着目しつつも、「実用論」的に要素が外界と接するなかで動的に実用的にどのように意味を変化させうるかという点、記号=要素の相互作用的な点をすっかり見逃していたのだと思います。

なぜ「実用論」的視点は排除されたか

生産性・効率化が求められる時代においては、企業は生産物の品質の上でも従業員の働き方の面でもバラつきをなくすため、分析的な思考で要素を分解し最適化を求めたモジュール化とその組み合わせ方について考えてきました。
そのためのツールがPDCAでありシックスシグマや戦略マップを含むバランストスコアカードなどであり、そこでの課題はいかに仕事を定量的に測定しそれに基づいたコントロールを可能にするかという点だったと思います。定量的な方法が問題発見・解決の根底にあったのだと思います。

しかし、これらは各要素(例えば、1つのタスク、個々の従業員など)が静的に固定された意味をもつものとして規定された場合にのみ有効です。要素間の組み合わせ=構造は各要素が「記号と指示対象の関係」のように「意味や特性をどう伝達するか」が静的に特定されることを前提としています。

ですが、この前提はあまりにも現実的ではありません。ある言葉が文脈によって異なる意味を伝達することがあるように、個々のタスク、個々の従業員が行う仕事も、文脈や環境によって異なる意味=効果を生み出すことはいくらでもあります。
こうした「実用論」的な視点があまり鑑みられず、生産性・効率化のためにそうしたバラつきを切り捨てるマネジメントの方法論がこれまでの分析的思考に基づくマネジメント論に共通にあった基盤なのではないかと思います。

ものづくり:生産からデザインへ

もちろん、それは生産性・効率化を目的にした場合は有効でした。バラつきをなくすため、環境そのものも極力、統一されたものにしようとコントロールしようとしたのもこのマネジメント法の特徴でした。
マスプロダクション、マスコミュニケーションなど、共通の環境に共通した製品を共通したメッセージにより売ることが可能だった時代、外部環境における小さな違いは無視することが可能だったからです。

しかし、もはや企業にとって外部環境にそのような前提を求めるのはむずかしくなりました。生産性や効率、あるいは、一貫した品質などは競争優位性につながりにくくなっています。

ものづくりの姿勢には2つのタイプがあります。
1つは生産性を重視したものづくりで、もう1つは企画・設計を重視したものづくりです。求められる機能を満たし高い品質を一貫して保持するためには、生産性を重視したものづくりの姿勢が重要視されるでしょう。
しかし、競争優位性が同じようなものの中での機能性や品質の高さではなく、いかに他にない新しいものを創造できるかという点に移行してくるとものづくりの姿勢においてもデザイン思考を重視したスタイルが求められてくるようになります。

現在、ものづくりの姿勢は、明らかに生産からデザインへと移ってきていると考えてよいはずです。

隠れた何かを考察する

マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』にこんな記述があります。

すべての研究は問題から始められればならない。研究が成功するのは、問題が妥当な場合に限られるのだ。そして問題が独創的である場合に限って、研究もまた独創的でありうる。しかし妥当で独創的な問題は言わずもがな、いかなる問題であれ、そもそも問題とはいかなる具合に考察がなされうるものなのだろう? なぜこんなことを言うのかといえば、問題を考察するとは、隠れた何かを考察することだからだ。
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』

研究と同様、ものづくりの成果が独創的になりうるためには最初の問題設定そのものが独創的である必要があります。デザイン重視のものづくりの姿勢にはおいては、まさにこの点が問われます。いかにつくるかの前に、何のためにつくるかという問題設定が重視されるのです。そして、それはポランニーがいうとおり「隠れた何かを考察する」ことにほかなりません。

隠れた何かを考察すること。それこそ、いかに創発を生み出すか、セレンディピティを発現させるかという問題そのものです。
目の前の事象を分解して理解する分析的な思考によってではなく、ひたすら目の前の事象を観察し、その世界のなかにみずから入り込んでいくこと、そして、その世界を身体的に体験するなかで「隠れた何か」を偶然に発見するというデザイン思考が必要なんだと思います。

昨日、「おもてなしの姿勢:「主」と「客」」を書いたのも、まさにそうした文脈においてです。
日本の文化において「主」と「客」は必ずしも固定された関係ではありません。「主」と「客」は相互に入れ替わりながら、相互の関係を深めていきます。しかし、昨日も書いたとおり、それは決して「主」「客」が合致するということではありません。お互いの異質性を保持したまま、関係を深めていくというのがポイントです。理解しあうというより発見しあう関係といったほうがいいかもしれません。それが「隠れた何かを考察する」ということだと思います。

隠れた価値をいかに創出し続けることができるか

話を最初に戻すと、現在、モノが余り市場での既存の価値の飽和が続くなかで、企業の経営課題は生産性・効率化から既存にない価値そのものを創出する創造性に移行しており、そのために「隠れた何かを考察する」ことができる創造的でデザイン思考的な組織づくり、ワークスタイルの創出が求められているのだと思います。

ただ、それにはこれまでの組織論やマネジメント論は、デザインするということやシステム化するという点についてあまりに認識が甘すぎ狭すぎました。バラつきをなくすための取り組みが「実用論」的な意味のバラつきまで排除してしまっていましたし、専門性や分業に関する過度の期待がT字型人間の育成やコラボレーションによるワークスタイルの場の形成をそっちのけにしてしまう傾向があったと思います。

しかし、これからはそうも行かなくなるでしょう。そこそこの機能と品質をもったものをある決められた納期内に大量につくること自体は、地球上どこでもできるようになりつつあります。そういう意味では地球上どこにももはやそうしたバラつきは存在しなくなってきました。すでに実現したものは課題とはなりえません。もはや、それは経営課題ではなくなったと見てよいのではないでしょうか(あくまでこれは一般論的な意味でです。もちろん、個々の企業においては課題である場合があると思います)。

むしろ、現在の経営課題はモノや価値が飽和状態にある市場において、いまだ隠れた価値をいかに創出し続けることができるか、また、そうした組織、仕事の仕方をいかに築くことができるかということに移ってきているはずです。ただ、こうした認識がどれだけ日本の企業の経営層にあるのか? ちょっと疑問に感じたりもします。いや、経営層だけではなく、僕自身も含めて日本で働くすべての人たちにです。

理解するのではなく発見する

僕らはもっときちんとデザインするとはどういうことかについて考えなくてはいけません。
もちろん、この場合の「考える」とはデザインすること、実践的に思考することにほかなりません。デザインにおいて重要なのは、理解することではなく発見することなのですから。

今後もこのブログではデザインするということについて日々実践的に考えたことを書いていきたいと思います。僕にとっては書くこと、書き続けることも大事な実践なので。

   

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posted by HIROKI tanahashi at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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