おもてなしの姿勢:「主」と「客」

ワークショップ形式で楽しくプロジェクトを進める方法」や「コラボレーションにおける"仮設の場"の活用」などのエントリーで、ワークショップ形式による協働作業の可能性について書いています。

ワークショップのような協働作業においては、何より場づくりが大事だというのは昨日も書いたとおりなのですが、それに関連して「おもてなしの姿勢」みたいなことについてちょっと考えはじめました。

普段、自分がやっていることについて、あらためて「ワークショップ形式で楽しくプロジェクトを進める方法」というエントリーに書いてみて、「あっ、なるほど、おもてなしの姿勢が重要なんだ」と気づいたわけです。

「主」と「客」

「おもてなしの姿勢」ということについて考えるにあたり、まず思ったのは、当たり前といえば当たり前なのですが、おもてなしをする際に僕らはもてなす相手を客人とみなしているということでした。
主人が茶室で客人を招きもてなす茶会を連想しました。

茶の湯で大切なのは、「主」と「客」で行われるということです。そこには「招く人」と「招かれる人」がいます。(中略)茶の湯は二度とない「いま」を大切に考え、「主」と「客」が相互に深い交流を行います。そして、「客」は「主」の日常のなかにあらわれた「マレビト」でもあります。「茶の湯」とはけっして非日常的なアナザーワールドではなく、日常と非日常の境界に位置し、それらを継ぐものではないでしょうか。

相手を客人とみなすのは決して当然のことではありません。
僕らは、相手を敵とみなすこともできれば、相手をアホだとみなすこともできます。
また、仲間とみなすこともできるでしょう。

しかし、相手を客人とみなすとき、そこには招き/招かれるという非対称の関係が生まれます。また、同時に茶室のような招き入れるための場が物理的か精神的かによらず想定されることになります。

そして、主人は客人を招きいれた場で、「主」と「客」の相互に深い交流を行うためのもてなしをするのです。

客人(マレビト)

ここで重要だと思うのは、「客」は外から来て、招かれるという点です。

<「客」は「主」の日常のなかにあらわれた「マレビト」>です。それは「仲間」のように最初から「主」の日常にいる存在ではなく、日常の外部から不意にあらわれる存在です。

マレビトは稀人とか、客人と綴ります。一般的には、ムラにときおり訪れる神のことで、常住する者(常民)にとってはいつも異様な来訪者と映るものです。マレビトは異人であり、異神であり、そして、客神です。つまりストレンジャーです。

ここで興味深いのは、マレビトは「常住する者にとってはいつも異様な来訪者と映る」ということです。客はかならずしも僕らがすなおに親しみを感じてその来訪を喜べるような存在ではないということです。むしろ、それは異様であり、仲間のようにすなおに自分の傍に招きいれることができる存在ではないのです。

しかし、そこでこそ「おもてなしの姿勢」というものが問われるのではないかと思うのです。

外から来て外に帰るマレビト

マレビトは民俗学者の折口信夫が精力を注いだ、日本文化を解くための重要な概念だといわれています。

なぜ、折口はマレビトを重視したか。それは、日本の神が外側からやってきて、また外側へ帰っていく「外来魂」であるという特徴をもっていることに着目したからでした。日本の神はどこかにじっと常住していない。いつもは山や海の彼方にいて(あるいは動きつづけていて)、ときおり訪れてくる異邦のマレビトなのです。

神は外からおとづれます。おとづれは音連れであり、神は音を連れてくるのですが、音はしても姿は見えません。つまり、神のおとづれは気配で感じられるものの、人は神の姿を目にしているわけではないのです。

僕はこの「気配は感じても目には見えない」という神=マレビトの特性では、いまおとづれた神が以前におとづれた神と同一の神であるかは特定できないのではないかと思います。いや、むしろ、神の同一性は最初から考慮されていないのではないかと思うのです。

ようするに、マレビト=客人であるのは間違いないが、一見客かリピート客かは区別がつかないのです。たとえ、リピート客であっても、以前、外部から来たものであるという識別子は厳然と存在したままで、自分たちの側のもの=仲間としては受け入れないのです。

ここに「おもてなしの姿勢」の根幹があるのではないかと僕は考えます。
そして、協働作業を進める上での基本的なアプローチがあるように思うのです。

「おもてなしの姿勢」と仕事の場のクリエイティビティ

つまり、協働作業とは、決して気のあう仲間同士で行うものではないということです。
本来、異質なもの同士が集まって行う作業が協働作業であり、作業が終われば、客人のほうはまた帰っていくのです。

とはいえ、相手が仲間ではなく、異質なものであるからといって、敵とみなすのでもアホとみなすのでもなく、客人としてもてなしの場に招き入れるのです。
もてなしの場において、「主」と「客」は相互に深い交流を行わなくてはなりません。それが協働作業であり、そうした作業の場を成り立たせるのがホストである主人に必要な「おもてなしの姿勢」ではないかと思いました。

気心のしれたもの同士で行う作業は簡単です。しかし、そうした場では新しいものが生まれにくいのも事実です。外から来るものは困難も同時にもってきます。外から来るものと行う作業はかならずしも容易なものではありません。ですが、だからこそ、その困難が新しい発想を生み出す源泉にもなりえます。

困難を招き入れることができるか、外側は内側に取り込んでしまうのではなく、外側であることを残したまま招き入れることができるかどうかが「おもてなしの姿勢」なのではないかと思ったのです。
そして、茶の湯のように「日常と非日常の境界に位置し、それらを継ぐもの」として、異質なものを受け入れる姿勢をとり続けることができるかどうかで、仕事の場における創造性の度合いが大きく変わってくるのではないかと思います。

それには相手を知るだけでなく、同時に自分を知ることも求められるのだと思います。いま自分が相手に対してどういう姿勢をとっているかに常に自覚的であることが「おもてなしの姿勢」には求められているのでしょう。

 

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