そもそも風景とは「景気」の強いすぐれた場所のことをいいます。景気とは、景色のもっているスピリットやエネルギーのこと、今日、経済社会で「ええ景気ですな」とか「えらい不景気でんな」といっているのは、もともとは風景のなかの景気のことだったのです。松岡正剛『花鳥風月の科学』
「景気」だけじゃありません。
今日マネジメントをあらわす「経営」という言葉は、この山水のコンポジションをマネジメントする経営位置から派生したものでした。松岡正剛『花鳥風月の科学』
現代では、「景気」は経済社会における儲かる/儲からないといった意味でのスピリットやエネルギーのみを示すようになり、「経営」は儲かるか/儲からないかを左右する視点でのみコンポジションをマネジメントすることを意味するようになったということでしょうか。
金銭的な豊かさのみが追求されるようになって、風景のなかに「わび」や「さび」を感じ取る余裕も失ってしまったということでしょうか。そう考えるとちょっと寂しい気がしてきます。
日本文化におけるイメージの起源と変遷
松岡さんは「風景というものは人々の見方が決定してきたもの」だと書いています。見る人の見方がそれを「風景」と認めたり認めさせなかったりするという意味で。その見方は、そこに景気が盛られているかどうかを判断することです。どこを景色の良いところと決めるかということ。すなわちどこを「名所」と決めるかということは、美意識や表現感覚が景色の動向と合致できるかどうかにかかっている。松岡正剛『花鳥風月の科学』
人の美意識、表現感覚と景色の景気との相互作用がある場所を風景として成り立たせ、名所化させます。何が美しく感じられ、歌に詠まれ絵として描かれるか、そして風景と成立するかはその時々の人々の美意識に左右されるわけです。
イメージの良し悪し、何がイメージ足りえるのかは、その時代時代によって変遷していきます。それは国々によっても異なるでしょう。人の美意識や表現感覚を根底から支える時代感覚は、イメージを生成するマルチメディア・システムとして機能します。
松岡さんは「花鳥風月は日本人が古来から開発してきた独特のマルチメディア・システムだった」と捉えています。そして、その上で「花鳥風月」を中心に日本文化の10のテーマを取り上げながら日本文化におけるいくつかのイメージの起源と変遷をさぐっています。
日本文化の10のテーマ
松岡さんがこの本で取り上げている、日本文化の10のテーマとは、「山」「道」「神」「風」「鳥」「花」「仏」「時」「夢」「月」の10個です。こちら側に対する向こう側、アナザーワールドとしての「山」。
そして山に入るための、田畑をつなぎ、都と都同士をつなぐものとしての「道」。
道をとおして疫病や魔物が入ってこないように守るもの(道祖神)として、さらには道をとおっておとずれる(音連れる)まれびと(客人)としての「神」。
そもそも「神」の本質は見えない情報の動きにあります。それは山や海の彼方から「おとづれ」として影向(ようごう)し、またどこかへ送られて戻っていく。日本の神は送り迎えを必要とする神でした。松岡正剛『花鳥風月の科学』
そして、「風」や「鳥」も古来の日本では「見えない情報」を連れ運ぶメディアとして憧憬の対象として数多くの歌に詠まれます。
花鳥風月のなかでも、とりわけ「花」は目立った主題です。
花は草木としての花であって人生の花であり、また「時」としての花でもあり、依代としての花であって、また、「仏」に供えるための花でした。立花(いけばな)はこの仏前供花をひとつのルーツにしています。松岡正剛『花鳥風月の科学』
神や風や鳥が、山や海などの向こう側からやってきて、また向こう側に帰っていくように、日本人にとって時は「ウツロヒ」として向こうからやってきて向こうへ去っていくものとしてとらえられていました。
「ウツロヒ」はウツという言葉から派生したものです。
「普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁」でも紹介したように、ウツからは、ウツワ(器)やウツル=ウツス(移る、写す、映す)など多くの言葉が派生しています。空っぽの器に向こうからなにかが移ってきて、また去っていく。しかし器から去っても、人はそれを心の中に写し、また、それを歌や絵に映し出します。
古来、日本人はそうした「ウツロヒ」の時間のなかで花鳥風月というマルチメディア・システムを用いて、イメージを変遷させてきたことが、この400ページを超える本にはさまざまな形で記されています。
情報の豊かさ、豊かなメディア
そして、この本では古来からの日本文化のイメージの起源と変遷を追うだけではなく、ところどころで「科学をめぐる話」が随時挿入されています。松岡さんはその理由として以下の4つを挙げています。
- 花鳥風月という漠然とした風物や現象には、それなりのダイナミックな動向があることをはっきりさせたい。
- 花鳥風月の科学にも不思議がいっぱいあって、科学の側でもうまく解明できていないばかりか、科学者の目にもどこか花鳥風月のもつ物語性のようなものが要求されていることを示唆しておきたい。
- 科学とはいえ自然の前の人間の受け止め方のシステムにも問題をおくべきではないかということ。
- これからの科学は「情報」をとりあつかうべきであり、それには情報の概念を大幅に広げなくてはならないということ。
4つ目の理由が松岡さん自身、「いちばん大切にしている」とおっしゃってますが、最初に紹介した「景気」や「経済」という用語を単に金銭的な情報を意味し操るものとして使っていること自体、情報の概念をたいへん狭めてしまっている現代の姿を映し出しているといえます。風景を風景として成り立たせるための「景気を盛る」ものとして、お金で釣ることしかできないのだとしたら、それはあまりに貧しい印象を持ちます。イメージの豊かさが極端にかけてしまっている印象がある。
むろん、金銭面のみの情報を情報を捉えるのは、数学的な数字を情報と捉える以上に貧弱なイメージしか持っていません。わかりやすいっていえばそうなんですけど、わかりやすさにもほどがあります。最近、ここでも、ここでも書いていることですが、確実性、誰がやっても同じことができるという確実性を求めすぎた結果がこの貧しいイメージを生み出してしまった要因なのかなと考えたりします。
もちろん、情報にはテキスト情報もあれば、視覚的な情報、音声や触感、においや味から得られる情報など、いくらでも存在するわけです。
花鳥風月のマルチメディア・システムが扱ったのはまさにそうした豊かな情報だったはずです。その情報ネットワークシステムが扱っていた情報の種類は、現在のインターネットで扱える情報をはるかに超えるものです。
情報の科学
いうまでもなく最近の科学は、人間やほかの動物の認知の問題やその行動(鮭が自分の生まれた川に戻ったり、鳥が渡っていく行動)を可能にしているものが何かという問題に踏み込んでいます。生物がそうした情報をどのように操り、どう処理しているのかがテーマとなっています。それだけではなく物理学の分野でも、情報が物やエネルギーと同様の中心的な要素として考えられ研究、議論が行われています。
こうした科学の動向を背景にもちつつ、松岡さんは<これからの科学は「情報」をとりあつかうべき>と述べ、それを「日本人が古来から開発してきた独特のマルチメディア・システム」である花鳥風月に重ね合わせて考察しているのです。
と、むずかしくとらえるとそんなことも考えられる本書ですが、400ページを越える量にも関わらず、「へー」って思うことがたくさんあり、なお文章自体も非常に平易に書かれているので、量の割にはあっという間に読めてしまいます。なので、おすすめです。
松岡さんの本を読んだのは実はこれがはじめてですが、別の本もぜひ読んでみようと思いました。
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