丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイル

ひとつ前のエントリーで紹介した西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』
この本を読むとき、西村さんが「まえがき」で書いているこんな言葉にまずハッとさせられます。

たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで。裏面はベニア貼りの彼らは。「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。(中略)やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ」という、人々を軽くあつかったメッセージを体現している。

手抜きとはいえない。けれど、本当に自分たちがつくりたいものをつくっている印象や、使ってもらう人の生活を豊かにしようなどという気持ちには欠ける仕事。

西村さんがそれと対比させているのは「丁寧に時間と心がかけられた仕事」です。

素材の旨みを引き出そうと、手間を惜しまずつくられる料理。表には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」という力の出し惜しみはない。

西村さんはいう。「このような仕事に触れる時、私たちは嬉しそうな表情をする」と。
確かにそんな丁寧な仕事に出会ったとき、僕らは嬉しく感じます。モノや相手の行動をありがたく感じます。そうした仕事、そして、それらにかけられた時間や気持ちに価値を感じます。

一方で、はたして自分たちがそういう仕事をできているか、と考えると、どうしても疑問を感じずにはいられないのではないでしょうか。
最初からいい加減に仕事をしてる人は別としても、個々人がていねいに仕事をしたいと思ってもそれをさせないビジネスモデルの制約、組織のワークスタイルの制約があったりします。「こんなもんで」という力の出し惜しみをしたくてしてる人ばかりではありません。出し惜しみなどしたくなくても、戦略や組織として形作られた働き方のデザインが力を出し切れるようにはつくられていなかったりするのです。

方法論が結果を左右する。働き方によって何を生み出すことができるかが変わってくるのです。
Know Whatではなく、Know How。
だからこそ、僕らは自分たちの働き方、ワークスタイルを今一度見直すべきときにあるのではないかと思います。

このエントリーでは丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイルを実現するには何が必要かということについて考えてみようと思います。

「働き方」を変えることで世界が変わる可能性がある

「こんなものでいい」と思いながらつくられたものに囲まれて暮らす生活は精神的な健康にもよくないはずです。

人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そして、それが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。

しかし、「つくる」ことより「売る」ことに重点を置いたマーケティング・マネジメントの思考が「創造性」より効率的な「生産性」ばかりをよしとしてしまい、すべてがその哲学に基づいて戦略化され、組織化されています。個々のワークスタイルもそれらの戦略化、組織化に基づき、創造性よりも効率性を高める形でデザインされています。

大切なのは、生み出されるモノや仕事そのものではなく、その結果生じる利益のみとなる。それでは、いくらユーザー中心だとか顧客志向だとかいったところで、ユーザーや顧客に「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを発信できるようなモノづくりや仕事などできないでしょう。

もっと根本的なところから「働き方」を変えていかないと、世界が変わる可能性はないのでしょう。
逆にいうと、「働き方」を変えることで世界が変わる可能性があるというのがこの本のテーマだったりします。

自分のワークスタイルを考える

僕自身が「働き方」=「ワークスタイル」というものに意識的に考えるようになったのは、今年の3月頃に奥出直人さんの『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』やIDEOのトム・ケリーの『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』『イノベーションの達人-発想する会社をつくる10の人材』を読み始めた時期からです。

人間中心のデザインのプロセスをじっくり自分なりにとらえて、身につけようと考えていた時期でした。しかし、上にあげた本や実際にコンテキスチュアル・デザインのアプローチやペルソナ/シナリオ法を用いた作業などを行っていると、いかに事前に暗黙知を共有できた状態のメンバーとの協働作業(コラボレーション)が大事かということが身にしみてわかってきます。
ユーザーや顧客の生活や行動という言葉だけでは捉えきれないものにフォーカスした途端、デザインを行うこちら側も頭で考える以上の身体的で暗黙知的な方法で思考し作業することが求められてくるということが実感できるのです。

不確定性を大事にする

しかし、そうしたアプローチを行うには、従来のワークスタイルに固執したままではどうにもなりません。
コンピュータ上のドキュメントをベースに行われるワークスタイルや、各自が自分のデスクにじっくり腰を据えたまま行う仕事、大きな机を境界線としてクライアントと業者の垣根を明確にしたまま進められるような仕事のスタイルでは、モノのディテールの違いを敏感に察知する身体感覚や、自分とは異なる他者の存在を受け入れ、そこにある矛盾さえも取り込みながら自身の思考を形作っていくような姿勢を育むことはできません。

先に書いたとおり、従来の仕事のアプローチというのは効率性、生産性を重視してデザインされています。この仕事のスタイルでは、効率や生産性を重視するため、不確定性やバラつきを極端に嫌う傾向がある。
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス/好井裕明」で指摘したようにカテゴリー化によるラベルにより安全圏となる確定性を得て、あくまでその範囲内で物事を進めようとする傾向があります。効率を重視しようとするのですから、定量的に測定、計算が可能な形に仕事をデザインするのはとうぜんです。そこでは不確定性ほど計算の障害になるものはありません。

もちろん、そうした仕事のデザインにも価値はあります。ただ、それがすべてではないということです。

一方では、ユーザーや顧客に「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを発信できるような創造性を重視して、丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイルがあっていいはずです。そして、このワークスタイルにおいてはいかに不確定性を受容するか、安全圏の外側にでて実際に存在するバラつきと自身の身体で向き合えるかということが重視されるはずです。自分が無自覚に前提としてしまっている「あたりまえ」の罠に気づき、バラつき、不確定性をもった現実といかに向き合えるかが大切なスタンスになってくるのだと思うのです。

バラつきを認める

日常にふつうに暮らしている人には本来バラつきがあります。実際にはバラつきというよりは単なる違いです。

同じように素材となるモノにもバラつき、個々のモノそれぞれがもつ違いがあります。同じ食材でもひとつひとつ個性があるのはとうぜんのことだし、だからこそ主婦は(というか僕も)スーパーで棚に並んだ食材ひとつひとつを吟味しそのなかから自分が選んだものを買っていきます。

色だってパントーンなどのカラーパレットやパソコン上で表現可能な色だけが色であるわけではありません。実際には自然物、経年変化した人工物があらわす様々な色が世界には満ち溢れています。

また、好井裕明さんが『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』で指摘しているように、僕らの感覚はアンケートでの「大変満足」「やや満足」「どちらでもない」「やや不満」「大変不満」のような5段階評価できるような形では整備されていません。もっとあいまいでバラつきがある状態こそ、僕らの感覚の本来の姿です。

従来のワークスタイルにおいては、こうしたものはすべて効率性を邪魔するものとして整形され、排除されてきました。しかし、その行為はまぎれもなく「こんなもんでいいでしょ」といったある種のあきらめを包含したモノづくりに通じてしまいます。
次々に生み出される「こんなもんでいいでしょ」的な品質の商品を1年おき、半年おきとかに新商品だといって買わされる生活スタイルは、別にLOHASとかに格別興味をもっているわけではない僕でもどうかと感じます。

丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイルを模索する

井上勝雄さんの編著による『デザインと感性』では「歴史を紐解くと、デザインという用語が使われはじめたのは、産業革命以降に物づくりに分業化がはじまった頃からで」、いまやデザインはマーケティングの道具として、いまだ使えるものでも古く感じさせて買い換えさせるための道具として用いられるようになったことが指摘されています。
使うためのデザインではなく売るためのデザインです。

それが「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを発する「丁寧に時間と心がかけられた仕事」によって生み出されたデザインなら、まだいいでしょう。
しかし、実際には買い換えさせるスピードをあげるためにも効率化が求められ、「こんなもんでいいでしょ」というレベルの仕事しかできないくらいの時間しか、モノづくりには与えられません。

正直、どうなんでしょ、それって?と思いつつも、それが結局、僕たち自身の働き方に由来するものなのですから、他人事のように嘆いているわけにもいきません。

「こんなもんでいいでしょ」というようなモノやサービスに囲まれた生活から脱却し、「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを発してくれるようなモノやサービスに囲まれて暮らす生活を望むなら、自分たち自身が丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイルを模索していくしかありません。

そういうことも含めて、日本のモノづくりとか、その基盤になるワークスタイルって転換期にきているのかなと強く感じるわけです。そして、その転換をサポートするような動きや人が求められてもいるんだろうなって。

  
  

関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック