エスノグラファーとブロガー

書くという行為はどうあがいたところで結局書き手の存在を完全に消し去ることはできないのでしょう。

フィールドワーカーが取り組むのは、単に何を書くべきかについての選択という課題だけではない。それに加えて、自分の目で観察した事柄をどのように表現し伝えるべきかについて決定するのである。
ロバート・エマーソン他『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』

フィールドワーク調査で、フィールドワーカーは他者の暮らしのなかに入り込み、その暮らしに密着して観察を行うことで、他者の生活・文化の事実を描き出します。
他者の暮らしに入り込み、いっしょに生活するのは、他者を外から見たフィールドワーカー側の思い込みの混じった視点で見るのではなく、内側にはいって他者と同じ視点をもつことで他者の代わりに内側からの視点での観察・発見を心がけようとするからです。

しかし、観察そのものは内側に入り込んで他者とほぼ同じ視点をもつことはできたとしても、記述することは観察したもの自体をそのまま書くということにはつながりません。

観察したものすべてを書くことはできないからです。

何を書くべきか、どう表現するかの決定に影響を与えるもの

昨日の「コンテキスチュアル・インクワイアリーでメモをとるコツ」でも、エスノグラファーがフィールドノーツを各作業には「本質的に解釈的なプロセスを含む」ことを紹介しました。

これは何もエスノグラファーの書くフィールドノーツに限ったことではないでしょう。
僕たちがブログを書く場合だって同じだと思います。
僕たちだって日々ブログを書く際に「何を書くべきか」の選択をしてるし、「自分の目で観察した事柄をどのように表現し伝えるべきか」を決定しているはずです。

書くという行為は、どれだけ客観的な立場に立とうとしても、必ず書き手の「本質的に解釈的なプロセスを含む」行為なんだと思います。

これらの決定の中には比較的単純明快なものもあるが、中にはもっと目に見えにくい、フィールドノーツを書く際に採用するスタンスに関わるもの、すなわち、対象となるトピックや人々に対する書き手の基本的な姿勢や態度にもとづくものも少なくない。
ロバート・エマーソン他『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』

僕らがブログを書く場合の何を書くべきか、どう表現するかの決定にも、ブログを「書く際に採用するスタンスに関わるもの」、「対象となるトピックや人々に対する書き手の基本的な姿勢や態度にもとづくもの」が大きく影響しているでしょう。そのことに自覚的であるかいなかに関わらず。

書こうというスタンス自体がブロガーに他の人とは違った人生経験を与える

『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』では、さらに根本的なレベルでは「フィールドワークの進め方やフィールドノーツの書き方における調査者のスタンスは、フィールドワーカーの人生観によって決まる」と書かれています。

つまり、フィールドノーツを書く時のスタンスは、人生経験、トレーニング、関心によって決まるところが大きいのである。
ロバート・エマーソン他『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』

これも僕たちがブログを場合でも同じことが言えるでしょう。
つまり、僕たちがブログを書く際のスタンスは、人生経験、トレーニング、関心によって決まるところが大きい、と。

でも、同時に書くという行為そのものが人生経験の一部ですし、トレーニングの一部です。

昨日も引用しましたが、

メモをとることを念頭においてある場に参加することによって、エスノグラファーは、その場の出来事を後で記録にとどめるかもしれない対象として意識しながら体験するのである。
ロバート・エマーソン他『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』

書くことを念頭に観察を行うという体験は、そうではなくぼんやりと暮らす体験とは異なるものだと思います。
それはブログを書く人が「今日はこれをブログで書こう」と思って、何かを体験するのと同じことだと思います。書こうというスタンス自体がブロガーに、他の人とは違った人生経験、トレーニング、関心を与えているのだと思います。

書くという行為はどうあがいたところで結局書き手の存在を完全に消し去ることはできない

話は最初に戻りますが、結局、書くという行為においてはどうあがこうとも、書き手の存在を完全に消し去ることはできず、書き手の視点、選択という要素は常についてまわるのだと思います。

かといって、それは単純に「個人の性格」などに還元できるものでもなくて、同じ人でも事情が違えば書くことも変わってくるはずです。
その意味では、書くという行為においてかき消すことのできない書き手の存在というのは、いわゆる近代的な個人にひもづくものでもないような気がしています。それは個人にひもづきつつも、その個人が生きる環境やコンテキストにも強く依存しているのだと思います。

人と環境、コンテキストの関係は相互作用的でどちらかが他方を完全にコントロールしあえる関係ではありませんし、その意味で個人も環境も独立して存在はしていません(ユクスキュルの『生物から見た世界』と同じ意味で)。

環境を記述するユビキタスな機械

で、最近、気になるのはやはり、この環境やコンテキストと人の相互関係性、生態学的な関係性についてなんです。

ブログを書くという行為も人工物を生成するという意味で、広義のデザインなのかなとか思うんですけど、この環境・コンテキストやその中で生きる自分のスタンスに依存した書くという行為=記述をうまく研究するとおもしろいんじゃないか、と。
環境を記述するユビキタスな機械なんかを使って、そうした機械が埋め込まれた何らかのコミュニケーションツールと人とのインタラクションをデザインすることもできるのかななんてことを夢想していたり。

人が物事を観察し、記述するという行為はなかなか深くて面白いなと最近思ってるわけです。



関連エントリー


この記事へのトラックバック