この本で、ユクスキュルは、行動は生物にとって刺激に対する単なる反応ではなく、生物の主体的な知覚が生み出す「環世界」との相互作用であると主張しています。
生物をさまざまな「知覚道具」や「作業道具」のみが埋め込まれた機械のような構造体としてみるのではなく、すくなくともそれらの機械の操作系である主体性がともに埋め込まれたものであると見做すことで、ユクスキュルは独自の思想である「環世界」というものを生み出しました。
しかしそうなれば環世界に通じる門はすでに開かれていることになる。なぜなら、主体が知覚するものはすべてその知覚世界になり、作用するものはすべてその作用世界になるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界という1つの完結した世界を作りあげているのだ。ヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』
そして、この環世界は動物ごとに異なるのだということが、ユクスキュルが本書で提起しているもう1つの視点です。
動物種によって異なる環世界
例えば、マダニは哺乳類の発する酪酸のにおいを知覚することで待ち伏せしていた木の枝から哺乳類めがけて落下し、うまく落下が成功した暁には毛の少ない皮膚を求めて哺乳類の身体を這い回り、皮膚の温かさを知覚すると頭から皮膚組織に食い込み温かい血液を体内に取り込みます。マダニには目もなく音も聞こえません。哺乳類が近くにいることを知覚するためには酪酸のにおいにたよりしかありません。というよりも、木の上で哺乳類が下を通るのを待ち伏せるマダニにとっては酪酸のにおい以外は世界には何もないのと同様なのだそうです。待ち伏せしている状態のマダニにとっては哺乳類の発する酪酸のにおいのみがマダニの環世界に存在するすべてなのです。
そして、運よく哺乳類の身体の上に落下したマダニの環世界は、今度は適切な温もりをもつ皮膚の温度のみが世界のすべてになるのです。
環境における空間や時間も生物ごとに大きく異なるそうです。人間にとって一瞬の時間は18分の1秒であるとユクスキュルは言っています。この 18分の1秒という時間は映画のコマ送りの単位から導き出されています。
しかし、ベタという闘魚に18分の1秒のコマ送りで自分の映像を見せても見分けられないのだそうです。ベタに見分けされるには、30分の1秒というコマ送りが必要なのだそうです。
さらにカタツムリの時間は異なります。4分の1秒の動きだとカタツムリは動きを捉えられず、実際は動いているものでも静止しているようにしか感じられないそうです。3分の1秒になってようやく動きに気づくカタツムリの時間は人間の時間よりはるかにゆっくり流れていて、それゆえカタツムリ自身は自分たちの動きを人間が感じるほどには「のろい」とは感じていないのです。
子供と大人でも違う環世界
環世界の違いは単に生物種によって違うというのではないようです。同じ人間でも子供と大人でも環世界は異なるようです。周囲10メートル以内では、われわれの環世界の中の物体は筋肉運動によって遠近を判断される。この範囲外では、本来、対象物は大きくなったり小さくなったりするだけである。乳児の場合、視空間は、そこであらゆるものを取り囲んだ最遠平面となって終わっている。われわれがその後しだいに、距離記号を利用して最遠平面を遠くにひろげていくことを学習することによってはじめて、おとなでは6キロから8キロの距離で視空間がそこで終わりそこから地平線がはじまるようになるのである。ヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』
ここでいう「最遠平面」とは、視空間が貫通できない壁としての地平線を指すユクスキュルの造語です。「最遠平面」の向こう側ではもはや遠い/近いの距離感は失われ、ものは大きいか小さいかでしか判断できなくなります。
その「最遠平面」が大人と子供では違うということです。そして、ユクスキュルが自身の経験としても語っているように、同じ人物でも体調によって異なる場合もあるのです。
環世界とアフォーダンス
アフォーダンスの説明ではよく、椅子は座るという行為をアフォードすると言われます。しかし、椅子が座るという行為をアフォードできるのは人間に限った場合だけです。犬や猫にももしかするとアフォードするかもしれませんが、蛾やマダニにとっては椅子は座るというアフォーダンスをもってはいないでしょう。そして、同じ人間であってもプロレスラーが闘うモードにある場合などであれば、椅子は座ることをアフォードするよりも、相手を殴ることをアフォードするかもしれません。
われわれが作用トーンを考慮に入れたときはじめて、環世界は動物にとってわれわれが驚嘆するような大きな確実性を獲得する。ある動物が実行できる行為が多いほど、その動物は環世界で多数の対象物を識別することができるといってよいだろう。実行できる行為が少なく作用像も少なければ、その環世界は少ない対象物からなる。このため環世界はたしかに貧しいものではあるが、それだけ確実なものになっている。なぜなら、ものが少ないほうが、たくさんある場合より勝手がわかりやすいからである。ヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』
マダニの環世界には、哺乳類の酪酸のにおいと皮膚の温度しか存在しませんでした。しかし、そのことで視覚も聴覚もない身体でも、他に惑わされることなく哺乳類の血液に到達することができる可能性は高まります。
「ものが少ないほうが、たくさんある場合より勝手がわかりやすい」。
確かに選択肢が少なく、アフォードする情報も限られていれば、行動に迷いは生じませんよね。飲食店のメニューだって、数が少ないほうがわかりやすくて選びやすい。w
でも、人間は「実行できる行為が多」く、それゆえか「環世界で多数の対象物を識別することができ」ます。
幸か不幸か、それが物事をわかりにくくしたり、行為を迷わせたりしてるのかもしれませんね。
この本。さらっと読めて、とても読みやすい本でした。
人間の認知というものをあらためて考える上でも参考になる古典じゃないでしょうか。
関連エントリー
- 本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源/マーク・S・ブランバーグ
- やわらかな遺伝子/マット・リドレー
- 祖先の物語 ドーキンスの生命史 上/リチャード・ドーキンス
- 『眼の誕生―カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー
- デザインの生態学―新しいデザインの教科書/後藤武、 佐々木正人、深澤直人
- 包まれるヒト―〈環境〉の存在論/佐々木正人編
- 生態学的認識論における情報と環境
この記事へのコメント