知ってました?
動きがあるからこそモノを立体視できる
アフォーダンス理論で知られるジェームス・ギブソンが提唱した生態学的認識論という理論があります。生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』
この生態学的認識論では、人間って身体の動きがあるからこそ、モノを立体視できると言われてます。
地表面の上にある高さをもって立つ動物である人間には、ここから向こうへと奥行きをもって広がっている地表面が手前が荒く、遠くにいくほど細かくなる「きめ」をもって知覚されます。
ギブソンはこれを「きめの勾配」と呼び、このきめの勾配こそが人間の視覚における奥行きの手掛かり情報として奥行きの知覚をもたらしていると考えます。そして、地表面に立つ人間は常に動きまわっているからこそ、その運動視差の中できめの勾配もめまぐるしく変化し、そこにパースペクティブ性が働いているのだろうと考えるのです。
そんな話がふと頭に思い浮かんで、何気なく携帯をぶらぶらさせてみたんですけど、これがまたびっくりするくらい写真が立体的に見えてくるから不思議。
皆さんもちょっとやってみてください。
風景みたいなごちゃごちゃしたものより、人が写ってたりする写真のほうが効果的ですよ。
どうですか? 結構違って見えるでしょ。
生命情報=生物に刺激をあたえ行動を促す情報
閑話休題。僕は、こうしたことも含めてこそ、本来的な意味での情報だと思うんです。
写真という二次元平面に何かを焼き付けて、それだけが情報だとしてしまったところに、いまの情報社会に漂うぎこちなさの要因があるのではないか、と。
写真を揺らすことで感じられる立体的な印象と普通にみる場合の写真の平面さの違いは、西垣通さんが著書『情報学的転回―IT社会のゆくえ』などで提起している情報の3つの区分でいうところの生命情報と機械情報の違い(もう1つは社会情報)にあてはまるような気がします。
生命情報というと、DNAの遺伝情報ばかりを思い浮かべる人がいますが、もっと広いのです。生物にとっての餌とか敵、異性、そういうものはすべて生命情報です。生物にとって意味があるもの、価値があるもの、生物に刺激をあたえ行動を促すもの、であるわけです。
写真という二次元平面に焼き付けられた情報はしょせんは機械情報にしか過ぎないのだと思います。それだけでは生物に刺激をあたえ行動を促すような生命情報としては失格です。つまり、そこには行動を促すアフォーダンスが欠けているのです。
もちろん、二次元的な写真すべてがそうだというわけではありませんが。
動きがあるからこそモノを立体視できる
そして、この世の中には機械情報を処理するだけのデザインと、ユーザーに行動を促し素晴らしいユーザーエクスペリエンスに導くような生命情報を提供してくれるデザインがあると思うのです(もちろん、その中間的なものも数多くあると思います)。人間中心のデザインは、写真を揺らすことで、写真の機械情報を再度、人間という生物により重要な情報である生命情報に変換することに類似するようなものではないかと思うのです。そうした行為へとユーザーを促すアフォーダンスのあるデザイン、あるいは、そもそも情報を生命情報として扱うようなデザイン。
やはり身体の動き、行為の中にこそデザインはあるのだと思います。
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