本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源/マーク・S・ブランバーグ

すでに「学習や経験の力をなめてはいけない」をはじめとするエントリーで何度か紹介してきたこの本。読了からすでに何日もたっていますが、あらためてご紹介。

最初に、著者のマーク・S・ブランバーグはアイオワ大学心理学部の教授を務める神経科学者で、心理学や動物行動学における行動と認識を研究している人です。著者は、本書の目的を「行動と認識に関心をもつ読者のために、適切な視点を提供すること」と記しています。
ここでいう「適切な視点」とは、あえて僕なりに解釈して簡潔にいうなら「行動と認識の起源を探ることがいかに本能という言葉を理解する上でも重要か」ということだと思います。
この「適切な視点を提供する」という目的を達成するために、本書で著者は既存の、適切ではない視点に関する誤解をとく作業を進めていくのです。

本書が「適切な視点を提供する」ためのターゲットとした主要な誤解は、以下の4つだといえるでしょう。

  • 人間の性向の1つとしてのデザイン論
  • 遺伝における遺伝子機能の正確な概念
  • 本能における個体発達段階の関与
  • 進化心理学や生得論者の本能に関する誤謬

こうした誤解がとかれたのちに残るのが「さまざまな生物種が種に特有の好みを示すのは、その種が種に特有の環境の中で育てられるからである」などの生物の行動や認識などの特性の起源を、複雑なベールに包まれた発達過程のなかで考えていこうという姿勢です。
このあたりは昨日紹介した、内田繁さんの普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/における、日本という自然環境に育てられた日本文化という形成過程を重視した考え方にもつながるところがあるなと感じています。

1.人間の性向の1つとしてのデザイン論

最初に解消されるべき誤解は、ダーウィンの自然選択説に反して「生物学的世界を設計の産物としてみようとする」人間の性向に関するものです。リチャード・ドーキンスが『盲目の時計職人』で指摘しているように、古くは約200年前にウィリアム・ベイリーが『自然神学、あるいは自然の姿から集めた神性の存在と特質の証拠』のなかで、時計職人、時計の複雑さの比喩を持ちいて、生物進化における神性による設計の意思をみようとする例が数多くあります。

共通の論旨としては、時計と変わらぬ、また、それ以上に複雑なしくみをもつ生物が、ただの自然選択だけで実現できるはずもなく、そこには優秀な時計職人のような設計者の意思や思考が必要なはずだというものです。

しかし、著者はこの考えをまったく裏返しにする形で反論を行います。

フォークやナイフ、本や本棚などの人工物の進化を研究するヘンリー・ペトロスキーなどの著作なども引用しつつ、そもそも人間のつくるデザインそのものがひとりの天才がその卓越したひらめきによって生み出したものなのではなく、たくさんの人が関わる歴史のなかの失敗と改善の繰り返しのなかで自然選択的に優れたデザインが残ってきたのだということを明らかにするのです。

私たちは複雑なものを前にして、その複雑さの起源にさかのぼる道が見つからないと、デザイン論の圧倒的な魅力に取り込まれてしまうのだ。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

デザインは、つねに先行するデザインを参照したうえで新たなデザインの提示が行われます。それはほとんどの場合、新たな形の発明であるよりも既存の形の改善である場合が多いでしょう。そして、数多く生み出される形のなかで優れたものが生き残る。それは生物進化の場合の自然淘汰と似ています。

著者がここで指摘するのは、複雑なデザインを決定することは、いくら偉大な神性をもってしても、とうぜん、それより劣ることが予測される一人の天才の力をもってしても、容易に行えることではなく、常に歴史のなかで繰り返される失敗を参照することではじめて成功につなげることが可能なのだということです。

2.遺伝における遺伝子機能の正確な概念

2つ目に解消されるべき誤解は、遺伝における遺伝子が果たす役割についてです。
すでに「学習や経験の力をなめてはいけない」でも紹介しましたが、著者は遺伝が必ずしも遺伝子によらないものだということを示す例をいくつも紹介しています。

  • 発達心理生物学者のダニエル・レーマンらによって明らかにされた、ラットの母親の肛門性器なめ行動がメスの性格の遺伝に関与すること
  • 行動発生学者のギルバート・ゴットリーブらによる、子ガモが生まれながらにして母鳥の呼び声を好むのは生まれながらの本能ではなく、卵のなかで自身の声を聞いているからだという発見
  • 発達心理生物学者のジェフリー・アルバーツらによる、ラットの子が自分と同じ種のにおいを好む性質を獲得するのは生後10日までに自分の兄弟からぬくもりを感じて育った場合に限られること
  • 著者自身の研究による、ハツカネズミの胎児の子宮内での配置により、生まれてくるメスのハツカネズミがメス的であるかオス的な性質をもつかが決まり、その性質はメスが懐胎する際の子宮内での胎児の配置にも影響を与える。それにより、その母親の懐胎期の環境が遺伝子によらず遺伝を受け継いでいくという例

つまり、ここで著者が明らかにしているのは、遺伝の要因はかならずしも遺伝子のみではないということです。

遺伝子にこれほど激しく関心が集まっている時代では、ダーウィンが遺伝のしくみをまったく知らずに自然選択説を組み立てたことも簡単に忘れられてしまう。しかし実際、ダーウィンの理論にはなんらかの遺伝があるだけでよかった。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

「複雑なものを前にして、その複雑さの起源にさかのぼる道が見つからないと、デザイン論の圧倒的な魅力に取り込まれてしまう」性向をもつ人間は、たとえ、神性によるデザイン論には逃げ込まない場合にも、遺伝子という単一のデザイナーのしわざに逃げ込もうとするのでしょう。

3.本能における個体発達段階の関与

「発達とはアンケート調査に「はい・いいえ」で答えるだけでは実情をつかみきれない複雑な過程なのである」とする著者は、この複雑な過程である発達段階にこそ、本能的なもの(行動や認識)の起源をみています。

あらゆる複雑な行動は下位行動からなっていて、その下位行動はそれぞれ発達の各段階で、しばしば見えにくい形で引き起こされる。つまり、DNA、細胞、行動、そして私たちの身体的、社会的、文化的環境が、絶え間なく、能動的に、リアルタイムで相互作用して、多くの人の目には神や遺伝子のデザインの産物と映るような行動を生み出すのである。もちろん進化は複雑な行動の出現に重要な役割を果たしているが、それは遺伝子に働きかけることによってではなく、発達の多様体まるごとを選択することによって影響を及ぼしている。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

先にも名前を紹介した、発達心理生物学者のダニエル・レーマンは、本能の生得性を主張する生得論者の「生得性とは本能が完全なかたちであらわれる概念で、そこに過去の経験は必要とされず、隔離されて育った動物でさえ、本能による行動は自然とできる」という主張に対し、「重要なのは、"動物が隔離されているか"ではなく、"何から隔離されているか"だ」と指摘しています。

つまり「ゴットリーブらによる、子ガモが生まれながらにして母鳥の呼び声を好むのは生まれながらの本能ではなく、卵のなかで自身の声を聞いているからだという発見」にもみられるように、卵の母鳥からの隔離では「子ガモが生まれながらにして母鳥の呼び声を好む」真の要因である「卵のなかで自身の声を聞いている」ことからは隔離できないのであって、その意味で「重要なのは、"動物が隔離されているか"ではなく、"何から隔離されているか"」ということです。

そして、こうしてしばしば複雑すぎてみえにくい発達段階を無視する形で、よりわかりやすく納得もしやすいデザイン論や遺伝子万能論が語られるわけになるのです。

4.進化心理学や生得論者の本能に関する誤謬

そして、多くの動物とおなじように言葉を使わない人間の乳幼児の研究に際しても、生得論者のわかりやすく納得できる、しかし、明らかに真実とはかけ離れた杜撰な説明が展開されるのです。

もちろん、じつのところ進化心理学者にとってカモメなどはどうでもいいのだ。彼らがもっぱら関心を寄せるのは人間であり、より正確に言えば、人間の本能である。さながらウィリアム・ジェームズやウィリアム・マクドゥーガルのように、トゥービーとコスミデスは証拠もないまま断言する。「人間の心の特別なところは、柔軟性を高めるために"本能"を捨てたのではなく、"複数の本能"-すなわち、問題解決の昨日を内容ごとに特化したもの-に増殖させたことであり、それによって心理学的メカニズムの役割が広がって、汎用性が(比較的)増したものになっている」。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

この議論の先に、進化心理学者が得意とする人には生得的に複数の神経モジュール(例えば、顔認識モジュール、空間関係モジュール、道具使用モジュール、恐怖モジュール、友情モジュールなど)が備わっていて、それにより人間は「幅広い能力を得て、さらに多様な問題を解決できるように」なるという話につながっていく。
しかし、素人の僕が考えてもそんなモジュールが生得的に身体に埋め込まれているといった物理的な証拠は存在しえないことがわかる。どんな発達過程によってそれらのモジュール的なものが生じるかはわからないにしても、それらは生得的なものと考えるよりも、発達過程によって形成されると考えたほうがよいだろうと感じます。

わからにくいものを何か特殊な1つの要因に帰そうとする点では、進化心理学者のこの態度は、先のデザイン論、遺伝子絶対論と同様のものです。
そうではなく、どんなにわかりにくくても、その真の要因をわかにくい複雑なもののなかに見ていくことが必要だというのが、著者が示す「行動と認識に関心をもつ読者のため」の「適切な視点」だと感じました。

結局のところ、私たちは種に特有の特徴と行動をさまざまに備えた独特の種である。したがって、もし人間の本質を探すなら、私たちは幼児のときには這い、その後は直立して歩き、ほかの指と向かい合わせにできる親指をもち、毛皮はなく、比較的大きな脳をもち、ふつうは一度に一人の子を生み、咽頭がのどの非常に低い位置にあることもあって声を出すことができ、体系は独特で、優れた視覚と比較的弱い嗅覚をもち、作動記憶におよそ7つのことを同時に記憶でき、記号の扱いに熟達し、言葉を使うといった、種々のことがらを考慮しなければならない。人間であるということは、これらのほかにもたくさんある数々の特徴の総和であり、それらが発達期間を通じて絶え間なく相互作用を果たしていった結果でもある。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

僕らもふだんついついわかりやすい説明、納得のいく説明を無防備に受け入れ、自身で複雑な過程に踏み込まずに真実を取り逃していることが多いのではないかと思います。

この本で著者が示した行動の複雑な過程、発達の複雑な過程の観察を重視する姿勢は科学の分野だけでなく、僕たちがかかわるデザインの分野、それからビジネスの分野でも重要な姿勢になってくるのだろうと感じます。

その意味で、この本によいタイミングで出会えたことは、自分にとってはラッキーだったなと思いました。



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この記事へのコメント

  • 花冠

    こんにちは。ずいぶん昔の記事ですのですでにご興味を失われていらっしゃるかも知れませんが、気になったのでいくつかコメントさせていただきます。ブランバーグの本には実は問題があって、いくつか彼はいくつかインチキをしています。例えば生得論者を遺伝子決定論者とほとんど同義に扱っていますが、実際の現代の生得論者は学習で全てが決まるという環境決定論に対して、学習など多くの性質に遺伝的要素があると主張している人たちのことです。ブランバーグの立場と同じで強調の程度の違いですね。

    遺伝の要因は遺伝子のみではない例として挙げられているのは「最初に想定されていたのとは異なるルートで遺伝していた例」ですね。例えばカモの雛の脳をノックアウトして発生できないようにした実験があります。その場合、そのヒナは卵の中で鳴くことも自分の声を好むこともできません。つまり、卵の中で鳴き自分の声を好むという性質も遺伝的基盤があるわけで、遺伝子が全く関係なかった例ではないのです。

    進化心理学における心のモジュール性ももともとはノーム・チョムスキーの言語獲得装置に由来した認知科学を発展させた研究に由来しています。そして遺伝病や脳の欠損で他人の顔だけ識別できなくなったり、道徳感情や痛みを持たない人は実際にいるわけで、証拠が十分でないという批判ならその通りですが、心のモジュール説に証拠が全く無いというブランバーグの主張はほとんど嘘なんですよ。
    2009年01月08日 16:30

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