「やってる」とか「入ってる」とかってどうなんでしょ? ビジネスとして。
ふつうは「販売してるよ」とか「つくってるよ」とか言わないですよね。「売れてるよ」とか「(つくったものは)評価されてるよ」とかですよね。
なのに、なんで調査に関しては「やってる」で満足されちゃう方が多いんでしょうか? 調査も次につながる結果出してナンボだと思うんですけど。もしかして調査をして、それに基づいて行動を起こすという発想がなじみにくいものなんでしょうか。
調査を「やってる」、勉強を「やってる」
そんな風に感じてしまうのは、やっぱり巷にはびこる勉強嫌いとか、「勉強してるよ」っていうだけで満足してしまってる人が意外に多いことと関係があるのかなとか思ってしまうからです。「やってる」という言葉の印象としてあるのは、「やってる」ことを次に生かすイメージがもてていないからそれ以上「やる」ことを拒むような感じなんです。次につながる成果が出ていて、それがビジネスなら売り上げや利益、個人の学習なら個人的メリット(スキルアップとか)に、調査や勉強がつながっているという実感があれば、むしろ「やってるけど足りない」で「もっとやりたい」になるのが自然だと思うんですね。
「やってる」という言葉には、やることを拒否しようとする思い、そして、調査や勉強を何のためにしているのか、よくわかっていないのではないかという印象を受けるんです。
「知る」ということ
どうも「知る」ということの貪欲さに欠けている気がするんです。いや、本当は「知る」ということに対する貪欲さじゃなくて、何かを生み出し、それが評価されるということへの欲求が足りないのかもしれません。
誰かの物真似ではなく、自分で失敗しながらも何かを生み出そうとするとき、その失敗そのものを知ることで新しいものが生み出せると思うんですね。
「知る」ための調査や勉強は、まさにその次の「つくる」「ためす」ためにあるんだと思います。それにつながっていない調査や勉強は確かに不毛です。調査のための調査、勉強のための勉強になってしまうと、確かにやらされてる感を感じてしまうでしょう。
「知る」ことは何かを生み出すことのプロセスの一部
でも、本当はそうじゃなくて「知る」ということは何かを試しながらつくりあげ、そして、それを評価してもらうための全体のプロセスのなかの一部だと思うんです。だから、人間中心設計の上流工程における観察法やコンテキスチュアル・インクワアリーによる調査も僕はデザインそのものだと思ってやっています。「知る」ことが目的なんじゃなくて「デザインする」ことが調査の目的です。とうぜん、それには具体的なデザインを起こしてくれる人にとって意味のある事実とその分析を調査で導けなければ「やってる」ことの意味なんかないと思ってます。
つまりはこういうプロセスの一部なんです。
そして、それはやっぱり勉強でも同じ。勉強することが目的の勉強なら、僕は別にやらなくてもいいと思う。それを自分の具体的な行動にどう生かしていくかが重要であって、勉強したかしないかそれ自体が重要なわけじゃありません。
誰かの成功に安易にしがみつこうとするのではなく、自分で失敗しながら学ぶこと。仕事と学びは一連の行動のなかに本来あるべきなんでしょうね。
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この記事へのコメント
sgr
冒頭で紹介されている状況説明に不備があるので語弊があるとは思いますが、「やってるよ」は謙遜を砕けて表現する際に使う言葉ではありませんか?
tanahashi
でも、他人の真似するなって言ってるくらいで、自分のやり方に統合しようなんてことにはまるで興味ないですし、自分の考えは主張しますが、どっちかっていうと、これでも多様性が好きなんですけどね。
ppp
内容も本を読んだ感想程度でしょうから、相手にしないほうがいい。